李自成の乱
李自成の乱は、明末の社会不安と財政破綻を背景にして起こり、1644年に北京を陥落させて崇禎帝の自殺を招き、結果として清の華北進出を決定づけた農民反乱である。山西出身の李自成は郵政役人から流賊となり、饑饉・賦役増徴・軍糧欠配に苦しむ農村の不満を糾合して大軍を形成した。本乱は明朝の末期政治を動揺させ、政局抗争の混迷と辺境軍事の空洞化が重なったところに発生し、王朝交替の引き金となった点に特色がある。北京入城後、李自成は「順」政権を称したが統治の基盤整備に失敗し、関内外の勢力均衡を読み誤ったため、ほどなくして瓦解に向かった。その余波は満洲の勢力拡大と直結し、最終的な明の滅亡を早めた。
背景
明末には小氷期の気候冷涼化と連年の凶作、銀流通の逼迫が重なり、地丁銀制下の税負担は増加した。内廷支出の膨張と宦官政治の強化、士大夫の分裂が続き、改革派である東林派とその対抗勢力の党争が政務を麻痺させた。北辺では女真勢力が統合を進め、やがて後金が勃興して遼東の圧力は増大する。こうしたなかで、各地の軍糧未払いと地方官の横征に反発した民衆は群盗化し、李自成・張献忠らの武装勢力が陝西・河南を中心に台頭した。地方防衛の要であった募兵制は財政難で維持困難となり、明は内外の二正面で疲弊したのである。
蜂起と西安政権
李自成は当初、山西・陝西の諸蜂起の一角にすぎなかったが、機動的な騎兵運用と民心掌握で頭角を現した。彼は「均田免糧」「殺富済貧」を掲げて官僚・地主層から物資を徴収し、兵站を確保する一方、掠奪の統制を試みた。西安攻略後には行政組織を置き、号令体系・糧餉徴収・貨幣流通の再建を志向したが、徴発の強制と軍紀の弛緩は各地で怨嗟を招いた。ここで李自成の乱は反明の社会運動であると同時に、臨時政権樹立の試みへと性格を変え、短期統治の難しさが露わとなった。
闖王の進軍と北京陥落
1644年春、李自成(闖王)は潼関を破って華北へ進出し、河北諸城を連鎖的に陥落させて北京に迫った。明廷は援軍調達に失敗し、守備は離反と潰走を重ねる。ついに崇禎帝は煤山で自縊し、都城は闖軍に接収された。李自成は旧官僚を登用して財政の立て直しを急ぎ、庫蔵開封と税制整理、銭貨の再流通を図ったが、朝貢網の断絶と市場の混乱は回復せず、商人層の協力も広がらなかった。為政の拙速と処断の苛烈は旧明官僚の離反を招き、都下の治安も不安定化した。
政権運営と失政
新政権は軍糧確保と治安回復を両立できず、徴発の苛斂化により都市・農村の支持を急速に失う。財貨の集中管理は市場の流通を停滞させ、旧体制の税庫・鹽課の再編も不十分で、軍紀の統制は緩んだ。関内拠点の構築に先立つ広域統治は、文官層の協力と地方エリートの懐柔を要したが、人材登用は短期で成果を挙げられなかった。こうして李自成の乱は「勝利後統治」の壁に直面し、対外的には遼東から南下する満洲勢力への備えが薄かった。
呉三桂・清の介入
山海関を守る呉三桂は、都落後の混乱と家族殺害の報を受けて李自成と対立し、最終的に関門を開いて満洲軍を招き入れた。ここで要衝山海関の戦いが決定局をもたらし、闖軍は敗れて華北から撤退する。満洲側は既にヌルハチ・ホンタイジの代に軍政と旗人社会を整備し、八旗制度(八旗)を基盤に迅速な展開が可能であった。李自成の退潮は、関内の権力真空を満たすべく清軍の入関を促し、北京再占領と順治朝の成立につながった。
影響と歴史的意義
李自成の乱は、明末の財政・軍制・官僚制の脆弱性を暴露し、王朝交替の形式を「外圧と内乱の接続」として示した。第一に、内地の社会経済は飢饉と流通停滞で壊死し、反乱勢力は救済者と加害者の二面性を帯びた。第二に、関鍵拠点を押さえる戦略よりも都城先占を優先したことで、広域補給線と統治資源の確保に失敗した。第三に、辺境防衛の崩れは外部勢力の合法的入関(勤王・征賊の名目)を容易にし、最終的に清王朝の成立を許した。したがって本乱は、明代末期の制度疲労が臨界点に達したことを示す歴史的事件であり、北アジア勢力の国家形成が華北で完成する契機となった。
主要年表
- 1630年代:陝西・河南で流賊拡大、李自成が諸勢力を糾合
- 1643年:西安を拠点化、統治機構の整備を開始
- 1644年春:潼関突破、河北進出
- 1644年:北京陥落、崇禎帝自殺、闖王入城
- 1644年:山海関の戦いで闖軍敗退、清軍入関