日清修好条規
日清修好条規は、明治初期の日本と清朝中国とのあいだで結ばれた最初の近代的条約であり、両国が形式上は対等な主権国家として外交関係を結んだことを示す画期的な取り決めである。明治政府は、西欧列強との不平等条約体制のもとで国際的地位の向上をめざしつつ、隣接する清との関係を近代的な条約により整理しようとした。一方の清も、アヘン戦争以降、西欧との条約関係に苦しみながらも、日本との関係を安定させる必要に迫られていた。このような状況のなかで締結された日清修好条規は、通商・居留・裁判権など多方面にわたる規定を含み、のちの日清戦争以前の「友好」期を象徴する文書として位置づけられている。
締結の背景
日清修好条規が構想された背景には、明治維新後の日本の対外政策の転換があった。江戸時代、日本は朝貢・冊封体制の外側に位置しながらも、対馬藩を通じて朝鮮や清との関係を維持していた。しかし、開国後は、列強との条約締結、明治維新政府の樹立を経て、周辺諸国との関係も近代国際法にもとづく条約へと再編することが課題となった。とくに、朝鮮・琉球・台湾をめぐる問題に対応するためにも、日本と清とのあいだで法的枠組みを明確化する必要があったのである。
条約成立の過程
日清修好条規は、明治政府の外務卿副島種臣らが交渉を主導し、清側では洋務派官僚として知られる李鴻章が中心的役割を果たした。交渉は、欧米列強との不平等条約を参考にしつつも、両国が対等であることをうたい、同盟関係ではなく「修好」と「通商」を目的とする形で進められた。交渉の舞台となったのは清の開港場であり、日本側は近代外交儀礼にもとづく条約文の作成を通じて、自国を近代的主権国家として認めさせることを狙った。最終的に、両国代表が批准書を交換し、日清修好条規は正式に発効した。
主な内容
日清修好条規の内容は多岐にわたるが、なかでも重要とされるのは以下の点である。
- 両国の「親睦」「修好」をうたい、互いの主権と独立を承認したこと
- 一定の港を相互に開き、通商と居留を認めたこと
- 両国民が相手国領内で犯罪をおかした場合、原則として自国の領事が裁く領事裁判権を規定したこと
- 関税率や貿易手続きについて、一定の取り決めを設けたこと
これらの規定は、欧米列強と清とのあいだの不平等条約に類似する部分を持ちながらも、日清双方に対して対称的に適用される点で特徴的であった。その意味で、日清修好条規は、東アジアにおける近代的国際関係の試みとして理解される。
領事裁判権と近代法制
日清修好条規における領事裁判権の規定は、日本にとって、西欧列強と結んだ不平等条約の屈辱を想起させるものであった。しかし、この条項は清に対しても同様に適用され、両国互いの臣民が相手国で自国法に従って裁かれる仕組みを作り出した。日本の近代法制整備は、こうした条約上の義務とも関わっており、大日本帝国憲法の制定や諸法典の編纂とあわせて、近代国家としての法的整備が進展していくことになる。一方、清側では、洋務運動の流れのなかで、西欧法制の導入や通商制度の再編が進められたが、その歩みは日本ほど急速ではなかった。
通商と人の往来
日清修好条規にもとづき、指定された開港場では両国商人の往来が活発化した。日本商人は清の港で茶葉や生糸、豆類などを購入し、清商人は日本の綿製品や雑貨を買い付けるようになった。また、留学生や留学官費生の派遣など、人の移動にも条約は一定の法的根拠を与えた。とくに日本側は、清からの情報収集を通じて、太平天国の乱後の中国社会の変化や、西欧列強との抗争の実情を学ぶことができた点で、条約が持つ意義は小さくなかった。
琉球問題との関連
日清修好条規は、直接には琉球処分を扱ってはいないものの、琉球をめぐる日清関係に影響を与えた条約でもある。琉球王国は、近世以来、薩摩藩の支配を受けつつも、形式上は清への朝貢を続けてきた。日本政府は、廃藩置県と並行して琉球の処遇を検討し、最終的には沖縄県設置へと進むが、その過程で清とのあいだに琉球の帰属をめぐる外交問題が生じた。日清修好条規は、こうした争点を直接解決しなかったが、のちの交渉において、両国が条約にもとづく「修好関係」を前提に琉球問題を論じる枠組みを提供したといえる。
日清戦争と条約のゆくえ
しかし、日清修好条規による友好関係は長く続かなかった。朝鮮半島をめぐる対立が深まるなかで、日本と清は、甲申政変や甲午農民戦争などの事件を通じて軍事的対立へと傾斜し、ついに日清戦争が勃発する。戦争の結果、日本は勝利し、下関条約によって遼東半島・台湾の割譲や巨額の賠償金支払いを清に認めさせた。このとき、戦前に締結されていた日清修好条規は、事実上その効力を失い、両国関係は不平等な支配・被支配の構図へと大きく転換したのである。
歴史的意義
日清修好条規の歴史的意義は、第一に、日本がアジアの隣国と近代的国際法にもとづく条約関係を結んだ最初期の事例である点に求められる。欧米列強との不平等条約に苦しむなかで、日本は清との条約を対等な形で結ぶことにより、自国の国際的地位をアピールしようとした。同時に、この条約は、東アジア世界における従来の朝貢・冊封関係から、主権国家どうしの条約関係へと移行していく過程を象徴している。第二に、日清修好条規は、その後の日清戦争や清の弱体化を経て忘れられがちであるものの、短い「友好」期の政治・経済・文化交流を支えた枠組みでもあった。日本と中国の近代史を理解するうえで、この条約がはたした役割を検討することは、両国関係の変動と東アジア国際秩序の変容を理解する鍵となるのである。