旅順|遼東半島に築かれた軍港都市

旅順

旅順は、中国遼東半島の南端に位置する天然の良港であり、近代以降、清朝・ロシア帝国・大日本帝国・ソ連・中華人民共和国といった大国の思惑が交錯した戦略的軍港である。日清戦争と日露戦争における激戦地として知られ、東アジア国際関係の転換点を象徴する地となった。

地理的条件と軍港としての価値

旅順は黄海に面し、周囲を半島状の丘陵に囲まれた深い入り江をもつため、外洋から内部が見えにくく、自然の要害として発達した。冬季も比較的結氷しにくい不凍港に近い条件を備え、大型軍艦の停泊や修理に適した軍港となりうることから、近代列強はここを東アジアにおける海軍拠点として重視した。

清朝支配と近代化の出発点

清朝の時代、遼東半島南端は長らく農漁村の集落にすぎなかったが、19世紀後半に列強の進出が激化すると、北洋艦隊の基地候補地として注目されるようになった。清政府は要塞化や港湾整備を進めたものの、防備は十分とはいえず、のちに日清両軍やロシア軍にとって攻略・占領の対象となっていく。

日清戦争と遼東半島還付

1894年に勃発した日清戦争で、日本軍は遼東半島へ進撃し、1894年末には旅順を占領した。この過程で住民の殺害が行われたとされ、「旅順虐殺」と呼ばれる事件が国際的な非難を招いた。講和条約である下関条約では、清が日本に遼東半島を割譲することとなったが、直後にロシア・ドイツ・フランスの三国干渉が行われ、日本は遼東半島を清に還付させられた。この経緯は日本国内に深い屈辱感を残し、のちの日露対立の遠因となった。

ロシアによる租借と要塞建設

三国干渉ののち、ロシア帝国は1898年、清朝との協定により旅順と大連を租借し、「ポート・アーサー」と称して極東最大級の海軍基地の建設に着手した。丘陵地帯には砲台や塹壕が張り巡らされ、港内にはバルチック艦隊の一部が配備されるなど、対日・対英を念頭に置いた要塞化が急速に進められた。この軍港建設には鉄道・電信・電灯など近代技術が導入され、電圧の単位ボルトで表される送電網も整備されていった。

日露戦争と旅順攻囲戦

1904年、日露戦争が勃発すると、日本海軍は開戦と同時に旅順港内のロシア艦隊を奇襲し、陸軍は南山・203高地など周辺高地をめぐって激戦を展開した。とくに旅順攻囲戦では、日本軍もロシア軍も莫大な死傷者を出し、近代要塞戦の苛烈さを世界に知らしめた。日本軍は高地を占領して港内を観測・砲撃できるようになり、最終的にロシア守備隊は降伏した。この勝利は日本の勝利を決定づける要因となり、極東におけるロシアの勢力を大きく後退させた。

日本の関東州統治と満州支配の拠点

ポーツマス条約の結果、日本は清から旅順・大連の租借権を継承し、「関東州」として統治した。ここには関東都督府が置かれ、関東軍が駐屯して南満州鉄道の沿線支配と連動しながら、日本の満州進出を推し進めた。港湾施設や造船所、倉庫群が整備され、街区には日本人居留民の住宅や官庁街が建設される一方、中国人住民は差別的な空間区分のもとで生活を強いられた。関東州経営は、帝国主義的な租借地支配の典型例として位置づけられる。

満州事変から第2次世界大戦まで

1931年の満州事変以降、関東軍は満州国建国を主導し、その軍事的背後地として旅順港を活用した。ここは日本海軍の根拠地として、中国東北部や華北への兵員・物資輸送の拠点となり、第2次世界大戦中も重防備の軍港として機能し続けた。他方で、軍事機密都市として統制が厳しく、政治犯や捕虜が収容される監獄・収容所の存在も指摘されている。

戦後のソ連軍駐留と中国への返還

1945年、日本の敗戦にともない旅順はソ連軍に占領され、その後も中ソ間の協定に基づきソ連海軍の基地として使用された。冷戦初期には東アジアにおけるソ連艦隊の重要拠点であったが、1950年代後半までにソ連は段階的に撤退し、軍港施設は中国側に引き渡された。その後は中国人民解放軍海軍の基地として利用される一方、日露戦争や租借地時代の遺構が戦争遺跡・観光資源として公開され、歴史教育の場ともなっている。

記憶の場としての旅順

旅順は、帝国主義時代の軍港であると同時に、多数の戦死者や民間人犠牲者を生んだ「記憶の場」としても位置づけられる。日本・中国・ロシアそれぞれの社会で、旅順攻囲戦や虐殺事件の記憶はしばしば異なる形で語られ、国民国家の歴史叙述や戦争責任をめぐる議論と結びついてきた。戦争と暴力の意味を問い直す営みは、ニーチェサルトルといった思想家が提示した近代批判とも響き合い、軍港都市旅順の歴史は、単なる局地戦の舞台を超えて、近代世界が抱えた矛盾の縮図として読み解かれている。