弥勒仏
概念と位置づけ
弥勒仏は、釈迦滅後に兜率天(Tusita)で修行し、一定の時を経て下生して成仏し、人々を導くと説かれる未来仏である。大乗の菩薩信仰では在家を含む広い救済の担い手として理解され、とくに「当来下生」の希望と結びついた。歴史的釈迦へ遡る伝統はブッダ(釈迦)を中心に展開したが、時代が下るにつれて人々は末法観や社会不安のなかで、将来に現れる仏への期待を強めた。こうして弥勒仏は、現世の苦を超える「次の時代」の到来を保証する象徴として受容され、仏教史に独自の位置を占めるに至った。
経典群と教義の要点
弥勒仏をめぐる教えは「弥勒三部経」と総称される経典群に整理されることが多い。そこで説かれる要点は、①兜率天での菩薩修行と上生、②人間界への下生と成道、③龍華樹のもとで三度の説法(龍華三会)を開き、広く衆生を成就へ導く、という三段構成である。すなわち、未来の師はすでに天上で整えられており、相応しい機が熟す時、人々の前に現れて正法を再び流布するという時間軸が強調される。また、三会の場面では戒律の再興と慈悲・布施の徹底が説かれ、社会秩序の回復とも結びつけられた。こうした枠組みにより、信者は遠い理想に閉じこもるのではなく、現世の倫理実践を通じて未来の出会いに備えることが求められる。
信仰の展開と地域性
インドで芽生えた弥勒信仰は、ガンダーラ・中央アジアを経て東アジアに広がった。漢訳仏典の整備と国家的保護を背景に、中国では魏晋南北朝から隋唐期にかけて教理・造像・講会が制度化し、地方社会や王権イデオロギーとも連動した(関連:中国仏教)。朝鮮半島・日本でも半跏思惟像を中心とする表象が発達し、来世救済を説く阿弥陀信仰が隆盛する以前には、未来志向の救済像として広く定着した。日本では平安後期の末法思想の広がりのなかで、念仏と並んで弥勒講・弥勒会が行われ、将来の師に備える実践が民間に浸透した(関連:平安仏教)。思想面では、大乗仏教の普遍救済の構想が「時間の先」に開く希望として具体化した点に特色がある。
造像表現とアイコノグラフィ
弥勒仏の表象は、時と場によって「弥勒菩薩」「弥勒如来」と呼称が変わる。天上で修行する段階は菩薩相、下生後の成道は如来相で造形されるのが通例である。東アジアでは右足を左膝に乗せ、右手指を頬にあてて思惟する半跏思惟像が広く知られ、未来の説法に向けた静かな思索の瞬間を定型化した。日本では京都・広隆寺の像が典型で、均整の取れた体躯と穏やかな微笑は、悟りに向かう内的集中と慈悲を可視化する。中国北朝〜唐代の石窟では、来迎図や三世仏の一尊としても登場し、集団的救済の物語の中に位置づけられた。素材は金銅・木彫・石彫など多様で、地域の技法と審美が反映される。
儀礼・倫理と社会的機能
信仰の実践では、弥勒の名を念じ、功徳を積んで兜率天の内院に往生することを願う上生信仰と、地上に下生した師の教えに遭遇することを願う下生信仰が併存した。講会では布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜が説かれ、共同体倫理の涵養に資した(関連:菩薩信仰)。王権はしばしば弥勒の徳をもって治世の安定を祈り、寺院は救済の可視化を担った。阿弥陀信仰の広がりとともに来世往生の願いが強まると、弥勒は時間軸の分担によって共存し、来迎の慈悲と将来の正法再興という二つの希望が信仰圏に並立した。こうした分担は地域の歴史経験—戦乱や飢饉、社会再編—に敏感で、寺社経済・民衆宗教の展開とも結びついた。
思想的意義と比較視点
弥勒仏の中心意義は、救済を「空間」ではなく「時間」に拡張した点にある。すなわち、救いは遠い浄土へ逃避するのみでなく、未来の歴史的場面でふたたび実現するという約束である。ここに、歴史の可逆性や倫理再建の構想が読み取れる。成仏に至る道を示した釈迦の教説(関連:ブッダ・仏教)と照応させれば、弥勒の物語は「正法の復興」という社会的文脈を帯び、信徒の実践を現在へ呼び戻す。学術的には、地域ごとの図像変容、講会制度の社会史、末法観と救済観の相互作用など、比較史・美術史・宗教社会学を横断する研究が進んでいる。
用語の使い分け
造像名や文献表記で「弥勒菩薩」と「弥勒仏」が併存するのは、下生前後で位相が変化するためである。天上修行期や思惟像は菩薩相、下生後の成道・説法は如来相で示される。記事内では便宜上、未来に現れて救済を完成させる位相を指す場合に弥勒仏と記した。背景理解のための関連項目として、大乗仏教、中国仏教、平安仏教、広隆寺の各項を参照されたい。