山東出兵
山東出兵とは、1927年から1928年にかけて、日本が中国の山東省にたびたび軍隊を派遣した一連の行動を指す語である。名目上は在留邦人と日本の権益を保護するための出兵とされたが、実際には北伐を進める中国国民党勢力の進出に対抗し、山東省における日本の政治的・軍事的影響力を示そうとする性格が強かった。とくに1928年の済南事件と結びついて、日中関係悪化の大きな契機となり、後の満州事変や日中戦争へと続く日本の対中軍事行動の前段階として位置づけられている。
歴史的背景―山東問題と列強の進出
山東出兵の背景には、帝国主義時代における山東省をめぐる列強の利権争奪がある。第1次世界大戦以前、山東省にはドイツが膠州湾租借地と膠済鉄道を保有していたが、大戦中に日本がこれを占領し、戦後のヴェルサイユ条約でその権益継承が認められた。これに対し中国では、山東を日本に譲渡したことへの抗議として五四運動が起こり、反日・排外運動が高まった。その後、1922年のワシントン会議において山東省の主権は中国に返還されたが、日本は鉄道や鉱山など経済的利権や在留邦人社会を維持し続けていたため、山東はなお日本にとって重要な権益地域であり続けたのである。
北伐の進展と第1次山東出兵(1927年)
1926年から開始された国民党の北伐は、北京政府や各地軍閥を圧迫しながら華中・華北へ進撃していった。山東省では直隷系・奉天系の軍閥が抗争を続けており、その上に北伐軍の圧力が加わることで、治安の悪化や在留外国人への不安が高まったと日本政府は認識した。1927年春、日本は山東省の在留邦人保護を名目として第1次山東出兵を決定し、部隊を青島に上陸させて済南方面へ前進させた。ちょうどこのころ長江流域では南京事件が発生し、外国人居留地が襲撃されるなど緊張が高まっていたため、日本側は山東においても同様の事態が起こりうると判断し、軍事的示威によって自国民と利権を守ろうとしたのである。
第2次・第3次山東出兵と済南事件
1928年になると、国民党の北伐が再開され、山東省にも再び国民革命軍が進出した。日本政府は第1次出兵では十分に情勢を抑えきれていないと考え、邦人保護と鉄道防衛を口実に第2次山東出兵を実施する。日本軍は済南周辺に展開し、中国側の部隊と緊張状態が続いた。そのなかで1928年5月、日本軍と中国軍の小競り合いが拡大して大規模な武力衝突となり、多数の中国人住民や兵士が死亡した事件がいわゆる済南事件である。この事件を受けて日本はさらに兵力を増派する第3次山東出兵を行い、青島・済南間の鉄道沿線を長期にわたって軍事的に押さえた。こうした連続する出兵は、中国世論に強い反発と屈辱感を与え、日本への敵意を一層高める結果となった。
日本国内政治と対中外交の文脈
山東出兵は、日本の対中政策を主導した田中義一内閣の「積極外交」と深く結びついていた。田中内閣は、満州・山東における日本の権益を軍事力を背景として守ろうとし、奉天軍閥を率いる張作霖を支援しつつ、国民党勢力の中国統一に警戒心を強めていた。その一方で、現地の軍事力としては満州や華北に展開していた関東軍や各師団が重要な役割を担い、東京の政府方針と現地軍の判断とが複雑に絡み合いながら、出兵の規模や行動が拡大していった。内閣は国際的非難を意識して「自衛」「邦人保護」を強調したが、国内でも政党勢力や世論の間で賛否が分かれ、後に満州事変へと続く軍部の独走を許した要因の一つと評価されている。
中国側の反応と民族運動の高揚
山東出兵と済南事件は、中国民衆にとって日本帝国主義の武力干渉として強く記憶されることになった。国民党政府は外交交渉による日本軍撤退を求める一方、国内では日本商品のボイコット運動や抗議デモが各地で展開され、反日感情が一段と高まった。北伐を進める国民革命軍にとっても、日本軍との衝突は抗日民族統一戦線を訴える格好の材料となり、後の国共合作や全国的な抗日運動へとつながる精神的基盤を形成したとされる。こうした中国側の動きは、日本の軍事行動が単に一地域の「治安維持」や「邦人保護」にとどまらず、広い意味での民族運動と対立する構図を生み出していたことを示している。
国際社会とその後の日中関係
山東出兵および済南事件に対して、欧米列強は表立った軍事介入は行わなかったものの、日本の行動に批判的な姿勢を示した。とくに山東返還後も日本が軍事力を背景に権益維持を図ったことは、ワシントン体制の精神に反するとみなされ、日本の外交的孤立を深める一因となった。中国側では、日本の度重なる武力行使の記憶が、後の満州事変や華北での緊張、さらに全面的な日中戦争の勃発に至るまで、長期にわたって反日世論を支え続けた。南京での事件や各地での衝突とともに、山東での出来事は南京事件などと並んで、20世紀前半の日中関係を理解するうえで欠かせない要素となっている。
歴史的意義と評価
山東出兵は、形式上は在留邦人保護と権益維持を掲げながらも、実質的には中国の主権と民族感情を軽視した軍事的介入であったと評価されることが多い。日本側にとっては満州・山東を自国の生命線とみなし、軍事力行使もやむをえないと考える発想が強く、これがその後の満州事変や日中全面戦争へとつながる前例をつくった。他方、現地軍の判断が先行し、政府がそれを追認せざるをえなくなる構図は、軍部の政治的発言力の増大と文民統制の弱体化を象徴している。中国側にとって山東出兵は、近代中国の民族独立と統一を妨げる象徴的事件であり、現在に至るまで反日感情や歴史認識問題の重要な論点であり続けている。