対仏大同盟(第1回)
対仏大同盟(第1回)は、フランス革命によって誕生した共和政フランスに対抗するため、ヨーロッパの君主国が結成した軍事同盟である。第1回大同盟は1793年を中心に結成され、イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、サルデーニャ王国、オランダなどが参加し、革命思想の拡大を阻止しようとした。しかし、内外の危機に立たされたフランスは国民皆兵体制と軍事改革を進め、やがてこの同盟諸国を打ち破り、ナポレオン台頭への道を開くことになる。
成立の背景
1789年に開始したフランス革命は、絶対王政を打倒し、自由・平等を掲げる新しい政治秩序を生み出した。とりわけ立憲王政の崩壊とルイ16世の裁判・処刑は、ヨーロッパの君主たちに強い衝撃と恐怖を与えた。君主国から見れば、フランスでの民衆革命は自国の旧体制を脅かす危険な前例であり、これを武力で押し戻す必要があると考えられたのである。
加えて、フランスは革命の名のもとに周辺地域への軍事介入を進め、オーストリアやプロイセンとの戦争に踏み込んだ。オーストリア=プロイセン軍がフランス領内に侵入すると、フランス側は「祖国は危機にあり」と叫び、国民の総動員を訴えた。このようにイデオロギー対立と安全保障上の不安が絡み合い、ヨーロッパ規模の戦争構図が形成されていった。
参加国とそれぞれの思惑
第1回の大同盟において中心的役割を果たしたのが、海洋国家イギリスと大陸の強国オーストリアである。イギリスの首相ピットは、フランス革命の急進化と戦争拡大を自国の海上覇権・植民地支配に対する脅威とみなし、フランスを封じ込めるために対仏包囲網を構築しようとした。一方、ハプスブルク家が支配するオーストリアは、王妃マリー・アントワネットの実家でもあり、王政崩壊と王妃処刑に対して強い敵意を抱いていた。
プロイセンやスペインなど他の参加国も、それぞれ領土的な利益や勢力圏の維持を目指して参戦した。例えばプロイセンはポーランド分割と並行して東方への拡大を狙い、フランス戦争を自国有利に利用しようとした。また、オランダやサルデーニャ王国は、フランスの軍事的圧力から自国を守るために大同盟に加わった。こうして同盟諸国は「反革命」という理念を共有しつつも、具体的な目的は必ずしも一枚岩ではなかった。
戦争の開始と初期の展開
対仏大同盟(第1回)の戦争は、1793年前後に本格化した。初期には同盟側が数の上でも装備の上でも優位にあり、フランス領への侵攻を進めた。内政面でも、フランスは王党派反乱やヴァンデー地方の反革命蜂起など、多くの内乱を抱えており、共和国政府は崩壊の瀬戸際に立たされた。
しかし、この危機こそがフランスの徹底した戦時体制を生み出した。国民公会は「国民皆兵」を掲げて徴兵を拡大し、軍隊を再編成した。軍人の昇進は身分よりも能力が重視され、旧体制下では埋もれていた多くの将軍が登場した。この流れの中で頭角を現した人物が、のちにヨーロッパを席巻するナポレオンである。
フランスの反攻と同盟弱体化
フランス軍は大規模動員と士気の高揚を背景に、1793年から1794年にかけて次第に反攻に転じた。ヴァルミーの戦いや、ベルギー方面・ライン方面での勝利により、フランス軍は国境防衛に成功するだけでなく、周辺諸国の領土に進出していった。革命政府は占領地に「姉妹共和国」を樹立し、旧支配層を排除して新たな共和政体を導入しようとした。
これに対して同盟側は、長期戦による財政負担や戦争目的の違いから次第に結束を失った。プロイセンはポーランド分割に専念するためフランスとの妥協に傾き、1795年のバーゼル条約でフランスと講和した。スペインもまた戦局の不利と国内事情によりフランスと講和し、むしろフランス寄りの外交に転じていく。
大同盟の崩壊と第2回大同盟への橋渡し
オーストリアとイギリスはなおもフランスに対抗し続けたが、単独でフランス軍の攻勢を食い止めることは困難であった。とりわけイタリア戦線では、ナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍を連続的に打ち破り、北イタリアにおけるハプスブルク家の地位は大きく後退した。その結果、オーストリアはカンポ・フォルミオ条約でフランスと講和し、領土再編を受け入れざるをえなくなった。
こうして第1回大同盟は事実上崩壊し、対仏包囲網は大きな挫折を経験した。イギリスはなおフランスと敵対し続けたが、大陸で共に戦う強力なパートナーを失い、海上封鎖や経済戦争を通じてフランスに圧力をかける戦略へと重点を移していく。その後、ナポレオンの拡張政策が進むにつれて、新たな構成メンバーによる第2回対仏大同盟が結成されることになる。
歴史的意義
対仏大同盟(第1回)は、単なる一時的な戦争同盟にとどまらず、ヨーロッパ国際秩序の大転換を告げる出来事であった。第一に、それは「革命フランス 対 旧体制君主国」というイデオロギー対立を、ヨーロッパ規模の総力戦へと発展させた。第二に、フランス側はこの戦争を通じて国民皆兵制度と大量動員による近代的な戦争形態を確立し、従来の宮廷外交と傭兵中心の戦争構造を塗り替えた。
さらに、第1回大同盟の失敗は、君主国側の利害不一致と外交的調整の難しさを露呈した。イギリス、オーストリア、プロイセンなどは、それぞれ別個の領土要求や安全保障上の思惑を優先し、真に一体化した「連合戦争」を遂行できなかったのである。その結果、フランスは各個撃破によって優位に立ち、のちのウィーン体制が模索することになる「ヨーロッパ協調」の必要性が、逆説的な形で示されることになった。
このように対仏大同盟(第1回)は、フランス革命期からナポレオン時代にかけての国際政治を理解する上で不可欠の出来事であり、近代戦争と国際秩序の変容を考える際の重要な出発点となっている。今後の展開では、ナポレオン戦争やウィーン会議などとあわせて把握することで、その歴史的意義がいっそう明確になる。