寛容法
寛容法は1689年、イングランドで成立した宗教立法であり、イングランド国教会以外のプロテスタントに限定的な信教の自由を認めた法律である。清教徒革命、王政復古、そして1688年の名誉革命という長い政治・宗教闘争の結果として生まれ、国王の専制と宗教的強制を抑えつつ、社会秩序を維持する妥協の産物であった。寛容法はプロテスタントの非国教徒に公認の礼拝を認めた一方で、カトリックや無神論者には適用されず、完全な宗教自由には程遠い内容であった。それでも、この法律は宗教的多元化を制度的に承認する一歩であり、後の宗教政策やイギリス議会政治の確立に大きな影響を与えた点で、近世イギリス史の重要な転換点と評価される。
制定の歴史的背景
イングランドでは16世紀の宗教改革以降、国王を首長とするイングランド国教会が確立され、その枠組みから外れる信仰はしばしば弾圧の対象となった。17世紀には清教徒を中心とする改革派が台頭し、内乱と共和政を経て護国卿クロムウェルの支配が生まれたが、政治的不安定さから王政が復活し、王政復古のもとで再び国教会体制が強化された。チャールズ2世の治世には審査法などにより国教会信徒のみが公職に就ける仕組みが整えられ、非国教徒やカトリックは排除された。さらに、ジェームズ2世のカトリック寄り政策が不満を高め、最終的にオランダ総督ウィレムを招く名誉革命が起こり、立憲的な王権と議会優位の体制が形成される。この新体制のもとで、宗教問題をめぐる対立を和らげ、国内のプロテスタント勢力を統合するために構想されたのが寛容法であった。
1689年寛容法の内容
寛容法は、国王ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治期に議会で可決された法律である。その核心は、一定の条件を満たしたプロテスタント非国教徒に対して、刑罰なしに礼拝を行う権利を認めることであった。ただし、これは「許容」されたにすぎず、完全な権利としての宗教自由ではなかった点が重要である。
- 対象はバプティストや長老派などのプロテスタント非国教徒に限られた。
- カトリックや反三位一体派(ユニテリアン)は寛容法の保護対象から除外された。
- 非国教徒は忠誠宣誓と一定の信仰告白を行うことが求められた。
- 礼拝所は登録制であり、秘密集会は依然として疑惑の対象となった。
このように寛容法は、治安と王権への忠誠を条件としながら、非国教徒の存在を公式に容認する制度的枠組みを与えた法律であった。
非国教徒と国教会の関係
寛容法は、イングランド国教会を優越的地位から引きずり降ろしたわけではなく、その特権を前提としつつ、非国教徒の迫害を緩和する「安全弁」として機能した。依然として審査法や会社法などにより、公職・大学・自治体の要職は事実上国教会信徒に独占されていた。したがって、非国教徒は礼拝の自由こそ獲得したものの、政治的・社会的な平等からはなお遠かったといえる。
一方で、都市の商人層や職人層には非国教徒が多く、彼らは経済活動を通じて社会的影響力を高めていった。ホィッグ党はしばしば非国教徒に一定の理解を示し、国王権の制限や財政・貿易政策を通じて彼らの利害を代弁したのに対し、トーリ党は国教会と地主層を基盤として、伝統的秩序の維持を志向した。この党派対立のなかで寛容法は、非国教徒を全面的に包摂しないまでも、政治体制の中へ部分的に組み込む役割を果たしたのである。
政治・法制度への影響
寛容法は、1689年の権利章典や人身保護法と並んで、イギリスにおける自由と権利の制度化を進めた一連の立法の一部である。名誉革命後の体制は、専制王権の復活を避けるために、議会を通じた財政統制や法の支配を重視し、その過程で宗教的少数派の扱いも政治安定の観点から再調整された。
- 宗教上の多数派である国教会を維持しつつ、プロテスタント内部の分裂を緩和した。
- 宗教的理由による大規模な反乱や内戦の可能性を低下させた。
- 商業・金融に携わる非国教徒の活動を容易にし、経済発展を後押しした。
このようなメカニズムを通じて寛容法は、長期的には議会主権と法の支配を支える社会基盤を整え、近代的な立憲君主制と市場社会の形成に寄与したと解釈される。
その後の展開と歴史的評価
寛容法はあくまで部分的な寛容にとどまり、カトリック解放や非国教徒の完全な市民的平等が達成されるのは19世紀に入ってからである。それでも、この法律は宗教的一枚岩を前提とした国家像から、信仰の多様性を前提とした国家像への移行を制度レベルで始動させた点で画期的であった。宗教的帰属だけでなく、経済活動や議会での代表を通じて政治社会に関与する市民・ブルジョワ層が台頭するなかで、国家もまた一定の宗教的多元性を認めざるをえなくなっていたのである。
こうした観点から見ると、寛容法は単なる宗教立法ではなく、17世紀イギリスにおける政治・社会構造の変容を象徴する法律である。国教会と非国教徒、王権と議会、地主と都市の商工業者、さらにはジェントルマン層と新興の経済エリートとの力関係の中で、この法律は妥協と調整の枠組みを与えた。後の歴史家たちは、その不完全さを指摘しつつも、宗教的多元化と議会政治の発展を結びつける重要な節目として寛容法を位置づけている。