威海衛|北洋艦隊拠点と英租借地

威海衛

威海衛は山東半島北端に位置し、渤海湾入り口を押さえる軍事・海運上の要地である。清末には北洋艦隊の主要軍港として整備され、日清戦争における決戦の舞台となった。その後、列強による中国分割の進展の中でイギリスに租借され、イギリス領「Weihaiwei」として統治されたが、1930年に中華民国へ返還された。近代東アジアにおける帝国主義と主権回復のせめぎ合いを象徴する拠点である。

地理的条件と戦略的重要性

威海衛は山東半島の北岸、劉公島を含む湾一帯を指し、対岸には遼東半島が位置する。ここを通過する海上交通路は北中国と朝鮮半島・日本海方面を結ぶ要衝であり、軍艦や商船の寄港地として重要であった。とくに遼東半島の旅順大連と向かい合う位置関係は、防衛の連携や制海権確保の観点からも大きな意味を持った。

清国による軍港整備と北洋艦隊

19世紀後半、洋務運動の進展にともない、清朝は近代的海軍の建設を進めた。その中心が北洋艦隊であり、その主要母港として選ばれたのが威海衛であった。湾内は天然の良港で、周囲には砲台や要塞が築かれ、近代的な軍港として整備された。こうした軍事インフラは、同時期に敷設が進んだ鉄道網、とりわけ東北地方の東清鉄道などとともに、清末の軍事近代化を象徴する存在であった。

日清戦争と威海衛の陥落

1894~1895年の日清戦争において、北洋艦隊は黄海海戦で大打撃を受けたのち、威海衛へ後退した。しかし日本軍は陸海からこの軍港を攻撃し、1895年初頭にかけて清側の要塞・艦隊を包囲・撃破した。ここでの敗北により北洋艦隊は壊滅し、清の制海権は完全に喪失した。威海衛の陥落は、下関条約につながる決定的局面であり、その後の中国分割の危機の起点ともなった。

三国干渉と列強による租借地拡大

下関条約後、日本は遼東半島の割譲を得たが、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉を受けてこれを返還した。すると今度は列強が清国に対し、各地の港湾や湾岸を租借地として要求しはじめる。ドイツは山東半島の膠州湾を、ロシアは遼東半島の旅順・大連を租借し、北中国における勢力圏を拡大した。この列強進出の連鎖の中で、イギリスも自国の海軍拠点確保を求め、清朝と条約を結んで威海衛の租借権を獲得したのである。

イギリス統治下の威海衛

1898年以降、威海衛はイギリスの租借地となり、夏季の海軍基地・避暑地として利用された。その性格は商業都市として発展した香港などと異なり、規模は比較的小さく、軍事・行政拠点としての性格が強かった。イギリスは現地の慣習を一定程度維持しつつ独自の司法・行政制度を導入し、帝国主義時代の特異な統治モデルを形成した。こうした列強支配は、中国全土で高まる民族意識や改革運動、とくにアジアの改革と民族運動の一環である清末改革や革命運動に対する一つの刺激ともなった。

返還と歴史的意義

20世紀に入ると、日露戦争や第一次世界大戦を経て国際情勢が変化し、威海衛の軍事的価値は相対的に低下した。イギリスは最終的に1930年、威海衛を中華民国政府に返還し、この地域の租借統治は終結した。威海衛の事例は、19世紀末の中国分割とその後の主権回復の過程、さらに列強間の勢力均衡の変化を具体的に示すものである。同時に、旅順・大連、膠州湾など他の租借地とあわせて、帝国主義時代の国際政治構造を理解するうえで欠かせない重要な歴史的素材となっている。