天津条約(1858)
天津条約(1858)は、清朝が第2次アヘン戦争の結果として、イギリス・フランス・アメリカ合衆国・ロシアの4国と1858年に天津で締結した不平等条約である。これは1842年の南京条約や1843年の虎門寨追加条約、さらに五港通商章程を引き継ぎつつ、開港場の拡大、外交特権の強化、内陸への通行権などを大きく前進させた点に特色がある。
成立の背景
19世紀半ば、清朝は列強との間で締結した諸条約により沿岸部の港湾を開き、通商を認めていたが、外交拠点の北京常駐や内地進出など、さらなる権益拡大を求める列強との対立が続いていた。1856年の「アロー号事件」とカトリック宣教師殺害事件をきっかけに、イギリスとフランスは武力行使に踏み切り、第2次アヘン戦争が始まった。清朝は伝統的な朝貢秩序の枠内で対応しようとしたが、近代的な軍事力と外交交渉において列強に大きく後れを取っていた。
交渉と締結の過程
1858年、英仏連合艦隊は大沽砲台を突破して天津に迫り、清朝は戦争継続よりも講和を選ばざるをえなくなった。ロシアとアメリカは形式上は中立を保ちながらも仲介役として行動し、自国にも同様の利益を及ぼす条約締結を狙った。こうして清朝は、わずかな時間で4か国と相次いで条約を締結することになり、天津は列強との外交交渉の舞台となった。
条約の主な内容
開港と通商の拡大
条約は、既存の開港場に加え、新たに内陸河川に近い港湾や北方・南方の港を開くことを定めた。これにより、長江流域への外国船の航行が認められ、中国国内市場への浸透が一段と進んだ。また関税は引き続き列強との協定関税制に服し、中国側が自由に税率を決定する関税自主権は大きく制限されたままであった。
外交権と司法特権
条約は、各国公使の北京常駐を認め、清朝の首都に近代外交の公館が設置される道を開いた。同時に、条約港では外国人が自国法に従って裁かれる領事裁判権や、一定の地域では中国法の適用を排除する治外法権が再確認・拡充された。これに、一国に与えた優遇を他国にも自動的に拡張する最恵国待遇が組み合わさることで、列強は一国が獲得した権益を互いに共有しながら、清朝の主権を体系的に制約していった。
宣教師・居留と内地通行
条約はキリスト教宣教師の布教と居住を一定程度認め、教会や墓地の設置など宗教活動の保護を明文化した。また、外国人が旅券を得て内地を旅行する権利も規定され、中国社会の深部にまで列強の存在が及ぶ契機となった。これらの規定は、のちのキリスト教排斥運動や各地の民衆暴動の一因ともなり、清朝支配と地方社会の緊張を高めた。
北京条約と履行
しかし、咸豊帝は条約内容に強く反発し、当初は批准を拒んだため、条約はただちには完全には履行されなかった。1859年の大沽砲台戦や1860年の北京攻略を経て、英仏軍が円明園焼き討ちなどで清朝を圧迫すると、ようやく清朝は1860年の北京条約によって天津条約を最終的に承認することになる。この過程で列強の権益はさらに拡大し、中国の半植民地化は決定的な段階に入った。
中国社会への影響
天津条約(1858)とその後の北京条約は、沿岸部だけでなく内陸部にまで条約体制を拡張し、清朝の主権と財政基盤を長期的に弱体化させた。多くの都市は条約港として外国の居留地・租界を抱え、その一部は近代的な経済・交通・行政制度を導入する先進地域となった一方で、国内の不平等感と反外国感情を増幅させた。これらの不平等条約は、のちの清末改革や辛亥革命期に至るまで、中国の近代化と対外関係を規定する重要な枠組みとして存続し、近代中国史を理解するうえで不可欠な転換点となっている。