大食
大食とは、中国・日本の中世史料に見られるアラブ人・イスラーム世界の呼称で、主として7〜10世紀のウマイヤ朝・アッバース朝を指す。語源はイラン系言語のTāzīに遡り、中央アジア・中国ではイスラーム政権と商人社会の総称として用いられた。現代語の「大食(たいしょく=大食漢)」とは無関係で、史料の大食は固有名として理解すべきである。
名称と語源
大食は漢文史料で「大食国」とも表記され、アラブ系王朝・人々を包括的に示した。語源とされるTāzī/Tāzikは本来アラブ人を指し、のち中央アジアで定住民・イスラーム共同体の広称へ拡張したと考えられる。
用語の範囲と時代
隋唐から宋にかけて、大食は西アジア・北アフリカに広がるイスラーム帝国とその商人の総称として通用した。唐の地理志や使節記事はシリア・イラク・アラビアの都市と互市を記し、宋の地理誌・諸蕃志も同様に条目を立てた。
中国史料における言及
『旧唐書』『新唐書』『通典』などは大食の制度・物産・信仰・風俗を記録する。南宋の趙汝适『諸蕃志』はペルシア湾方面の港市・航路・物価を詳述し、唐から宋に至る対外認識の基礎を提供した。
交易と海上交通
大食商人は陸上のシルクロードと並行してインド洋・南シナ海の海路を利用した。唐の広州や江南の揚州には居留地が形成され、陶磁や香料などが交易された。宋には対外貿易を統括する市舶司が整備された。
宗教と文化交流
大食の来航は宗教文化の移動も促した。イスラームの礼拝施設が中国都市に建ち、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(摩尼教)、景教(景教)などイラン系・シリア系の伝統が共存した。長安の大秦景教流行中国碑はその象徴である。
軍事・外交
8世紀半ばのタラスの戦いは、唐の西域経営の転機として注目される。勝敗よりもカルルクの離反や後背地の不安が影響し、以後は使節・商人往来と互市による関係調整が中心となった。大食は外交儀礼と商業秩序の双方に参加した。
都市社会と居留地
港市では、大食系の商人・通訳・宗教指導者が自治的コミュニティを築いた。衝突の記録もあるが、法規と課税の枠内で交易は継続し、礼拝施設・宿舎・倉庫・市場を備える居留地が維持された。
制度・法と呼称の変遷
唐の対外管理は市易・蕃漢分居など多様で、宋には港湾制度が一層整備された。呼称も、唐・宋では大食が一般的で、元以降は「阿剌伯」「回回」が広がる。
研究上の注意
漢文史料の音写は揺れが大きく、同一都市・政権に複数名が併存する。さらに、大食は宗教・政治的結合を強調する集合名であるため、文脈ごとに時代・地理・政権名を照合し、唐・宋の対外認識枠組みの中で読む必要がある。