国防政府
国防政府は、フランス第二帝政が崩壊した直後の仏国内で、対プロイセン戦争の継続と国土防衛を目的として樹立された臨時政府である。普仏戦争における敗北と皇帝政の崩壊という非常事態に対処するため、共和派の政治家や軍人が中心となって構成され、のちの第三共和政への橋渡しを果たした政権として位置づけられる。
成立の背景
国防政府の成立背景には、普仏戦争におけるフランス軍の連敗と、皇帝ナポレオン3世の捕虜化がある。特に1870年のスダンの戦いでの壊滅的敗北により、第二帝政は実質的に崩壊し、パリでは共和政樹立を求める民衆が蜂起した。この危機のなかで、帝政に代わる臨時の統治機構として国防政府が組織され、戦争継続と首都防衛を掲げて政権を握ることになったのである。
樹立と政権の構成
国防政府は1870年9月にパリで宣言され、軍人であるトロシュ将軍が首班となり、共和派の政治家ガンベッタやジュール・ファーブルらがこれに加わった。彼らは、帝政崩壊後の空白を埋めるとともに、国土防衛を正当化の根拠として政権の権威を主張した。国防政府は法的には暫定的な存在でありながら、外交・軍事・財政など広範な国政を担い、国家の存続をかけた危機管理内閣として機能したのである。
対プロイセン戦争と軍事政策
国防政府の最重要課題は、プロイセンを中心とするドイツ諸邦との戦争継続であった。パリが包囲されると、ガンベッタは気球で首都を脱出し地方都市に拠点を築き、義勇兵や新兵を動員して各地に「国民軍」を組織した。強行な戦争継続は国民的抵抗を象徴する一方で、十分な訓練や装備を欠いた軍の編成は戦局を逆転させるには至らず、プロイセン側が優位を保ち続けた。その結果、国防政府は防衛の意思を示しつつも、軍事的には苦しい立場から抜け出せなかった。
外交交渉と停戦への道
戦況悪化のなかで、国防政府は外交面でも活路を求めたが、ヨーロッパ列強はいずれも慎重で、フランス支援に積極的ではなかった。プロイセン側ではビスマルクが主導し、厳しい講和条件を突きつけた。最終的に1871年初頭、パリの疲弊と飢餓が極限に達すると、国防政府は停戦を受け入れ、選挙によって新たに選出された国民議会が正式な講和交渉を担う体制に移行した。この過程で国防政府は、自らの役割を終えつつも、共和国政体の継続を既成事実化することに成功したと評価される。
国内統治と社会不安
国防政府は戦争遂行と並行して、国内秩序の維持や行政の継続にも取り組んだ。徴兵や増税など国防体制強化の措置は、地方における疲弊と不満を生み、パリでは住民の生活困窮が社会不安を高めた。とりわけ首都の労働者層やナショナリストは、さらなる抵抗と「社会共和」の実現を主張し、穏健共和派が多数を占める国防政府との緊張が高まった。この対立は、のちのパリ・コミューン蜂起に連なる政治的分裂の伏線となった。
講和と領土割譲
停戦後に締結された講和条約では、フランスは巨額の賠償金支払いとともにアルザス・ロレーヌの割譲を余儀なくされた。これはドイツ諸邦を統一したドイツ帝国の成立と結びつき、ヨーロッパの国際秩序を大きく変える契機となった。こうした厳しい条件は、国防政府の防衛努力が結果として十分な成果を挙げられなかったことを象徴しており、フランス社会には屈辱と復讐心を長く残すことになった。
第三共和政への橋渡し
国防政府は短命の臨時政権であったが、その存在は帝政崩壊後に共和国を継続させる重要な役割を果たした。戦時下という異常な条件のなかで、共和派の指導者たちは議会選挙の実施や行政機構の再編を進め、結果として第三共和政の枠組みを準備したのである。国防政府は軍事的には敗北の歴史に属するが、政治制度史の観点からは、フランスにおける共和政の定着と近代国家への移行を推し進めた転換期の政権として位置づけられる。
歴史的意義と評価
歴史学において国防政府は、敗戦と占領の危機に対し、国家と政体をいかに維持するかという課題に取り組んだ事例として注目される。ビスマルク主導の統一政策に直面したフランスは、軍事的には劣勢であったが、共和政の名のもとに国民的抵抗を組織し、最終的に帝政への回帰を許さなかった。国防政府の経験は、のちのフランス政治における「国民防衛」と「共和制擁護」の結びつきを強め、近代ヨーロッパにおける戦争と政体変動を考察するうえで重要な事例となっている。