国民(国家)社会主義ドイツ労働者党
国民(国家)社会主義ドイツ労働者党は、第一次世界大戦後のドイツで成立し、アドルフ・ヒトラーの指導のもとで大衆政党化して政権を掌握し、独裁体制を築いた政党である。党名に「社会主義」を含むが、その実態は極端な民族主義と反自由主義を核に、反ユダヤ主義と排外主義を結び付け、国家権力と暴力装置を用いて社会全体を統制する政治運動へと拡大した。
成立と党名
前身は1919年にミュンヘンで結成されたドイツ労働者党(DAP)である。ヒトラーは党に参加すると演説能力で頭角を現し、1920年に党名を国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)へ改め、党旗として鉤十字を採用した。党名の変更は、民族共同体の理念と大衆動員の志向を示す政治的宣言であり、戦後の不満や屈辱感を吸収する器として機能した。
思想と主張
党の中核は、民族を国家の根本単位とみなす民族主義、議会制民主主義への否定、指導者への絶対服従を求める指導者原理である。反ユダヤ主義は単なる偏見ではなく、社会不安や経済危機の原因を特定の集団へ転嫁し、敵像を固定する統治技術として組み込まれた。対外的には領土拡張と「生存圏」の獲得を正当化し、戦争と征服を国家目的へと接続した。
組織と動員
国民(国家)社会主義ドイツ労働者党は、党組織を行政区画に重ねる形で整備し、地方支部を通じて日常生活へ浸透した。突撃隊SAは街頭での示威や敵対勢力への暴力を担い、のちに親衛隊SSが拡大して治安・収容・弾圧の中枢へ成長した。青年層にはヒトラー・ユーゲントなどの組織を通じ、教育と儀礼、集団活動により忠誠を形成した。宣伝は演説、新聞、行進、象徴の反復で構成され、感情の統合と同調圧力を生んだ。
権力掌握までの過程
1923年のミュンヘン一揆は失敗に終わったが、裁判はヒトラーに全国的知名度を与えた。世界恐慌後、失業と生活不安が拡大すると、党は救済と秩序回復を約束し、議会内で勢力を増大させた。1933年に首相任命を受けたのち、非常措置と立法権の集中によって反対派を排除し、複数政党制を解体して一党支配へ移行した。ここで党は選挙の枠組みを利用しつつ、その後に制度自体を無力化する手順をとった点に特徴がある。
党国家体制と社会統制
政権獲得後、党は国家機構と結合し、官僚制・警察・司法・教育・文化を再編して統一化を進めた。労働組合は解体され、職場と余暇は国家・党の管理下に組み込まれた。反対意見は監視と密告、逮捕によって沈黙させられ、収容施設の体系が拡大した。反ユダヤ主義政策は差別法、財産剥奪、隔離、暴力の段階を踏み、最終的に大量殺害へと接続した。党は社会を「同質化」する名目で異質な存在を排除し、恐怖と利益配分で忠誠を維持した。
戦争と崩壊
対外侵略は党の理念と権力維持に直結しており、戦時体制は統制をさらに強化した。戦況が悪化すると、宣伝は現実の隠蔽と敵愾心の煽動へ傾き、国内の動員は過酷さを増した。1945年の敗戦により党国家は崩壊し、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党は解体された。戦後は指導者層の訴追、非ナチ化、史料公開を通じて、その支配の仕組みと犯罪の全体像が検証され、現代においても独裁と差別の危険性を考える重要な対象であり続けている。