吐蕃|チベット帝国の拡大と唐との抗争

吐蕃

吐蕃は7世紀から9世紀にかけて青蔵高原に興ったチベット系王国であり、東は唐、西は中央アジア、南はインド・ネパール方面と接して広域的に影響力を及ぼした政体である。王権は軍事力・道路網・朝貢外交を梃子に版図を拡張し、とくに8世紀後半には河西・敦煌を押さえ、763年には長安を一時占領するなど、東アジア国際秩序の一角を担った。内政面では高原環境に適応した牧畜・交易経済を基礎としつつ、仏教の受容を通じて文字・法制・寺院ネットワークを整備し、後世のチベット文化の基盤を築いた政権である。

成立と地理環境

高原中央部のヤルツァンポ川流域に拠点を置く諸部族が連合し、強力な王統を樹立したのが吐蕃である。稜線と盆地が交錯する青蔵高原の自然は、農耕単作ではなく牧畜・畑作・交易の複合経済を促し、峠道と宿営地の掌握が政治権力の核心となった。気候・標高に制約される生産性を、遠距離交易と朝貢の獲得で補う構造が見られる。

ソンツェン・ガンポの時代

建国期の王ソンツェン・ガンポは諸族統合と都城の整備を進め、唐との通婚や使節の往来を通じて外交的地歩を固めた。法制整備・軍制統合・道路網構築が進展し、仏教受容の端緒が開かれたと伝えられる。彼の統治は王権の象徴化と制度化を同時に推し進め、後継期の拡大の前提を整備したのである。

対唐関係の展開

7~8世紀の吐蕃は、唐との間で和戦を繰り返した。唐の辺境政策や内乱・節度使体制の揺らぎに乗じ、青海・河湟・河西回廊へ進出した。なかでも敦煌の掌握はシルクロード交易の掌中化を意味し、関所・文書行政・駐屯の実装によって実利を引き出した。和議により国境線を画定する場面もあり、互いに冊封・朝貢儀礼を巧みに外交資源化した。

宗教と文化の受容

在来のボン教的宗観に、インド・ネパール経由の仏教が重層的に流入した。翻訳僧と学匠を招聘し、サンスクリット文献の継受や戒律の導入が進む。王権は寺院・僧団を庇護する一方で、政治秩序の安定化に宗教権威を利用した。文字の整備は法令・徴発・税目の記録化を促し、行政の持続性を高めた。

制度と軍事

吐蕃の軍事は機動的な騎兵と峠道掌握に特色があり、地方単位の貢納・兵役を王権が統括した。道路・駅伝・倉庫のネットワークは戦時・平時を問わず機能し、駐屯地の設置は地域支配の拠点となった。官僚制は王族・貴族層に支えられ、任地制・監察の仕組みが漸次整備されたとみられる。

長安占領と最盛期

安史の乱後、唐の防衛力が低下すると吐蕃は積極攻勢に転じ、763年には長安を一時占領した。象徴的なこの出来事は、東アジア国際秩序の流動化と、強大な周辺勢力の台頭を示すものであった。以降も河西経営・国境防備・交易掌握を通じて実益の確保が図られた。

中央アジア・南アジアとの関係

西方ではソグド系商人や遊牧勢力と利害を共有・競合し、南方ではヒマラヤ越えの峠を介してインド仏教世界と連絡した。この南北・東西の交差は、僧侶・文書・工芸・織物・薬物など多様な文化要素を高原にもたらし、政治的威信の資源ともなった。

王権・貴族・法制

王権は血統的正統を掲げつつ、諸部族の合意形成と実力の均衡上に立脚した。貴族層は軍事・財政・婚姻ネットワークを通じて地方支配を担い、法制は慣習法に文書行政が重なって整備された。王権の宗教保護は僧俗の序列を規定し、寺院財の管理を通じて経済秩序を編成した。

分裂と余波

9世紀には王位継承をめぐる内紛や宗派対立が深刻化し、中央統制が弛緩して吐蕃は分裂に向かった。だが高原社会に定着した仏教文化・文字・寺院制度は各地に残存し、後世のチベット仏教諸派の形成や地域政権の構図に長期的影響を与えた。

史料と学術的課題

  • 敦煌文書をはじめとする漢文・チベット文の史料群は、行政・軍事・交易の実像を示す一次資料である。
  • 碑刻・仏像・壁画などの考古学的成果は、宗教受容と王権表象の関係を具体化する。
  • 環境史・交易史・宗教史を横断する統合的分析が、国家形成と高原社会の相互規定性を明らかにする。

用語補説:名称と表記

漢籍史料では吐蕃と記され、西言語では“Tubo”や“Tibet Empire”と表される。日本語史学では建国期から9世紀の分裂期までを主に指す用語として用いられ、後代の地域政権や宗派勢力とは区別するのが通例である。