北清事変
北清事変は、1900年に清朝中国北部で発生した武装衝突であり、列強8か国が共同で軍隊を派遣して清朝および義和団勢力と戦った事件である。日本では、義和団による排外運動から講和までを総称して義和団事件と呼ぶのが一般的であるが、とくに軍事的側面、とりわけ日本軍の海外出兵と戦闘行動に焦点をあてる場合に北清事変という語が用いられる。清朝の弱体化と中国の半植民地化をさらに進行させ、日本にとっては日清戦争後に列強の一員として武力介入を行う契機となった点で重要である。
用語と時期
北清事変という名称は、日本側の歴史叙述に由来し、「北」は中国北部を、「清」は清朝を指す。おおむね1900年春の義和団蜂起の拡大と、6月の各国公使館包囲、続く8か国共同出兵による天津・北京攻略、そして1901年の辛丑和約調印にいたる軍事・外交過程を指す。欧米史学で用いられる「Boxer Rebellion」や中国語の「義和団運動」は、農民・民衆による反帝国主義運動としての側面を強調するのに対し、北清事変という語は列強軍事介入と国際関係を中心に把握する用法が強い。
背景―列強による中国分割と改革挫折
19世紀後半、アヘン戦争やアロー戦争、日清戦争を経て清朝の主権は大きく損なわれ、列強は通商条約・租借地・勢力範囲を拡大させて中国分割を進めた。沿海部や内陸各地では宣教師や商人が進出し、治外法権を盾に現地社会との摩擦を生じさせ、これが反キリスト教・反外国人の仇教運動として広がっていった。他方で、危機を自覚した一部の知識人や官僚は西洋文明を取り入れるべきだと主張し、洋務運動を発展させていくなかで、より抜本的な近代化政策として変法自強や戊戌の変法を提唱した。しかし1898年、光緒帝のもとで急進的な改革を進めようとした康有為や梁啓超らは、西太后を中心とする保守派により弾圧され、改革は戊戌の政変によって挫折した。この改革挫折と列強の圧迫のなかで、下からの排外的な武力抵抗として義和団運動が台頭し、それが北清事変の直接的な背景となった。
義和団の蜂起と清朝政府の対応
義和団は、山東省など北中国の農村部で活動していた民間武術結社であり、呪術的な修行と武術の訓練によって銃弾をもはね返すと信じ、「扶清滅洋」(清朝を扶けて西洋勢力を滅ぼす)をスローガンに掲げていた。彼らは飢饉や貧困、豪商・地主と結びついた外国資本への不満、キリスト教会や信徒に対する反発を背景に、教会・鉄道・電信線など西洋文明の象徴を破壊し、各地で暴動を起こした。はじめ清朝政府は義和団を弾圧しようとしたが、やがて列強への対抗勢力として利用しようと考え、地方官僚の一部は義和団を黙認・支援するようになる。1900年6月には、清朝は列強に宣戦布告し、北京の各国公使館区域を包囲するに至り、局地的な騒乱は北清事変と呼ばれる国際的な武力衝突へと発展した。
8か国共同出兵と北京占領
各国公使館の包囲と鉄道破壊、在留外国人への襲撃は、列強諸国にとって自国民保護と条約権益防衛の重大問題と受け止められた。はじめ列強は比較的小規模な救援部隊を派遣したが十分な戦力を欠き、義和団と清軍の抵抗に苦戦したため、本格的な共同出兵が決定された。8か国共同出兵には、日本、ロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国が参加し、とくに日本は日清戦争での勝利を背景に大規模な陸軍部隊を送り、天津攻略と北京進撃の主力となった。列強軍は天津城を陥落させたのち北京へ向けて進軍し、1900年8月には北京城を占領して公使館区域を解囲し、清朝政府の中枢は西安への逃亡を余儀なくされた。こうして軍事的には北清事変は列強側の圧倒的な勝利に終わった。
北清事変と日本の対外政策
北清事変は、日本にとって日清戦争後はじめて大規模な海外遠征軍を編成し、列強の一員として多国籍軍事行動に加わった経験であった。日本政府は、自国民保護と条約上の権益防衛に加え、中国北部での発言力拡大とロシア牽制を目的として出兵を決断した。戦場では日本軍の規律と戦闘力が高く評価され、列強諸国から軍事的信頼を獲得したことは、その後の同盟交渉や日露戦争における国際的地位向上につながった。他方で、遠征軍維持の負担や兵士の規律問題、略奪・暴行への批判なども生まれ、日本国内での軍事行動の是非や対中政策をめぐる議論の契機ともなった。
辛丑和約と清朝のさらなる従属
軍事的劣勢を痛感した清朝政府は列強との講和交渉に入り、1901年、いわゆる辛丑和約(北京議定書)を締結した。この講和条約によって清朝は巨額の賠償金支払いを約束し、北京から海岸までの鉄道沿線には列強軍の駐屯と要塞化を認め、首都周辺の防衛権を大幅に制限された。また義和団に加担したとみなされた高官の処罰や、反外国運動の禁止、軍備の制約など、清朝の主権をさらに制限する条項が盛り込まれた。こうして北清事変は、列強による中国支配を一段と強化し、清朝体制の威信を決定的に失墜させる転機となった。
歴史的意義とその後の中国・日本関係
北清事変ののち、中国では清朝への失望と列強支配への反発がいっそう高まり、立憲運動や革命運動の土壌が形成されていった。辛亥革命へとつながる近代中国の変革過程において、本事件は清朝の統治能力の限界を示した象徴的出来事と位置づけられる。一方、日本は列強の一角として軍事力と外交力を誇示することに成功したが、それは満洲や朝鮮半島への利害進出をめぐってロシアとの対立を深め、やがて日露戦争へと向かう出発点ともなった。さらに、多国籍軍としての協調行動を経験したことは、日本の軍部や外交官僚に国際政治を力の均衡として捉える発想を強め、アジアでの勢力拡大を正当化する論理を補強した。こうした点で北清事変は、中国と日本の近代史、とくに帝国主義と民族運動が複雑に交錯する20世紀東アジア史を理解するうえで欠かせない節目である。
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