五港通商章程
五港通商章程は、清朝がイギリスとの南京条約締結後に結んだ追加協定であり、広州・厦門・福州・寧波・上海の5港における通商の具体的な手続きや権利関係を定めた通商規則である。条約文そのものが枠組みを示したのに対し、五港通商章程は関税、居留地、裁判管轄、入港・出港手続きなど実務にかかわる細目を規定し、清朝が列強と結んだ不平等条約体制の具体的な運用を示す文書として位置づけられる。
歴史的背景
五港通商章程が結ばれた背景には、清朝が長く維持してきた広州一港に限定した交易体制と、それを揺るがしたアヘン戦争の衝撃がある。戦争の端緒となったのは、アヘン密貿易を取り締まった官僚林則徐の政策と、それに反発したイギリス商人やジャーディン=マセソン商会などの利害であった。清軍は近代軍事力をもつイギリス軍に敗北し、1842年に南京条約を締結して香港島の割譲と多額の賠償、そして5港の開港を受け入れたが、その後の通商実務については詳細な取り決めが必要とされたのである。
締結の経緯
南京での講和後、清朝とイギリスは開港地における税関手続きや居留民の扱いをめぐって折衝を重ね、その結果として1840年代前半に五港通商章程が作成された。この章程は、清朝側の全権大臣とイギリス代表との協議により起草され、条約本文では扱いきれない実務条項を整理したものである。同時期に結ばれた追加条約とともに、英清関係における新たな外交・通商秩序を確立し、以後の欧米諸国との条約のひな形ともなった。
章程の主な内容
関税制度と協定関税
五港通商章程は、輸出入品目ごとの税率や徴税手続きなど関税制度を詳細に定めた点に特徴がある。従来、清朝は情勢に応じて税率を変更できたが、章程によって一定の税率が国際約束として固定され、いわゆる協定関税の性格を帯びるようになった。これにより清朝は自主的な関税政策を展開する余地を失い、列強の通商上の利害が優先される構造が形成されたのである。
居留地と通商範囲
五港通商章程は、開港地における外国人居留地の設置や通商範囲も規定した。外国商人は指定された区域内に住宅や倉庫を建設し、港湾施設を利用して自由に売買できる権利を得た。他方、中国人はこれらの区域への立ち入りに一定の制限を受け、都市空間は中国人居住区と外国人居留地とに分断されていった。とくに上海では、この章程にもとづく居留地の形成を契機に、後に共同租界や各国租界が発達し、近代中国を代表する国際都市へと成長していく。
裁判管轄と治外法権
五港通商章程は、居留地における外国人の裁判管轄を明確にし、外国領事が自国民の刑事・民事事件を裁く領事裁判権の根拠の一部となったと理解されている。これにより、外国人は清朝の法体系から事実上切り離され、治外法権的な地位を享受するようになった。この仕組みは、その後各国と締結された不平等条約でも踏襲され、清朝の司法主権を大きく制約することになった。
公行の廃止と自由貿易
広州における旧来の対外貿易は、公認商人組合である公行が外国商人との取引を独占する体制であったが、五港通商章程はこの仕組みを解体し、外国商人が直接中国商人と取引できる道を開いた。公行の仲介を経ずに売買が行われることで、外国資本はより自由に中国市場へ浸透し、沿岸部を中心に通商構造が大きく変化した。こうして清朝の伝統的な対外貿易秩序は崩れ、条約港を基盤とする新たな国際商業ネットワークが形成されたのである。
五港における通商の展開
- 広州では、従来からの対外貿易の蓄積を背景に、外国商館が拡大しつつ旧来の商人層と新しい仲買人層が錯綜する市場が生まれた。
- 厦門・福州・寧波では、茶や生糸など地域特産品の輸出が増加し、内陸部との物流網が整備されていった。
- 上海では、長江水系への玄関口としての地理的条件から、輸出入品の集散地として急速に発展し、列強の金融・海運資本が集中する国際貿易港となった。
このように五港通商章程にもとづく開港は、沿岸部に条約港経済圏を形成し、中国の地域間格差や対外依存構造の拡大を促すことになった。
国際関係とその影響
五港通商章程で確立された通商・居留の枠組みは、やがてアメリカやフランスなど他国との条約にも応用され、清朝と欧米諸国との条約体系の基礎となった。列強は最恵国待遇条項を通じて互いの特権を共有し、中国市場への参入と利権獲得を競うようになる。その一方で、清朝は主権の一部を恒常的に制限され、関税自主権・司法権・通商政策などの面で制約を受け続ける構造に組み込まれていった。
清朝社会・経済への影響
五港通商章程にもとづく条約港の開設は、中国経済を世界市場へ急速に組み込む契機となった。外貨決済や貿易不均衡の拡大は、中国からの銀の流出を加速させ、農村社会や財政に深刻な影響を与えたとされる。また、沿岸部を中心に外国商館と中国人買弁商(コンプラドール)が結びつき、新しい都市商業層が形成される一方、内陸農村は国際経済から取り残されるなど、社会構造の分裂も進行した。このように、五港通商章程は単なる通商規則にとどまらず、近代中国の政治・経済・社会の変容を方向づける重要な転換点であったと評価される。