事大党
事大党は、19世紀後半の朝鮮王朝において、清を「上国」と仰ぐ伝統的な事大外交を維持しようとした保守派の政治勢力である。彼らは朱子学に基づく華夷秩序と身分秩序を重んじ、急進的な西洋化を志向する開化派や、近代的な民族独立を掲げる独立党と鋭く対立した。清への従属的な外交を通じて朝鮮の安全を確保しようとした点に特徴があり、壬午軍乱や甲申政変などの政変を通じて政権の実権を握ったが、日清戦争後には急速に影響力を失った勢力として理解されている。
歴史的背景
19世紀の朝鮮は、三政の弊や農民反乱が続発し、社会秩序が動揺していた。国内では洪景来の乱などの蜂起が相次ぎ、外部からは日本や欧米列強が通商開国を迫ったため、朝鮮王朝は深刻な危機に直面した。このような状況のなかで、伝統的な冊封体制に依拠し、清朝を後ろ盾とすることで安全保障を図ろうとする政治的志向が強まり、その受け皿として事大党的な勢力が形成されていったのである。
大院君政権との関係
19世紀中葉に実権を握った大院君は、強力な攘夷・鎖国政策をとり、西洋列強やカトリック勢力を弾圧した。しかし彼は必ずしも典型的な事大党ではなく、清への形式的な事大を維持しつつも、自立的な王権強化を図った点で独自性をもつ。その後、閔氏一門が台頭し、王妃閔氏(閔妃)を中心とする新たな権力基盤が成立すると、清に対してより積極的に依存する路線が強まり、これが日本史でいう事大党として位置づけられる勢力へと結晶していった。
開国と対外危機の中での事大政策
1870年代、日本は軍事力を背景に朝鮮へ接近し、江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を締結させた。開国をめぐる初期段階では、朝廷内部で鎖国継続・日本排除を唱える勢力と、開国を容認する勢力が対立したが、やがて清が朝鮮に宗主権的な立場から関与を強めると、清に依存することで日本を牽制しようとする事大党が主導権を握るようになった。彼らは日本や西洋との関係を最小限に抑えつつ、清軍の駐留などを通じて王政の安定を図ろうとしたのである。
思想的特徴と政策
事大党の思想的基盤は、朱子学的な華夷秩序観である。中華文明を体現する清を「上国」、朝鮮を「小中華」と位置づけ、その枠組みの中で礼儀と朝貢を通じて秩序を維持することが、国家安定の道と考えられた。したがって、彼らは西洋文明を「夷」とみなし、その制度や技術を包括的に導入することに慎重であった。
- 外交面では、清への従属的な事大関係の維持と、日本・西洋に対する抑制的な対応を重視した。
- 国内政治では、科挙制度と身分秩序の維持、朱子学を中心とする儒教道徳の強化を掲げ、急進的な制度改革に反対した。
- 軍事面では、近代軍制の全面的導入には慎重で、既存軍制の部分的改革にとどめようとする傾向が強かった。
開化派・独立党との対立
一方、開化派は日本や欧米の近代制度を積極的に導入し、官僚制や軍制の改革を通じて近代国家への転換を図ろうとした勢力である。1884年の甲申政変では、開化派がクーデタを通じて政権掌握を試みたが、清軍の介入によって失敗し、これは清の軍事力を背景とする事大党の勝利として記憶されている。その後も、親清的な事大党と、日本を後ろ盾としつつ近代化を進めようとした勢力との対立は続き、やがて民族的独立と改革を掲げる独立党が登場すると、政治対立はさらに複雑化した。
勢力基盤と主要人物
事大党の実質的な勢力基盤は、王妃閔氏を中心とする閔氏一族と、それに結びついた高位官僚・名門両班であったとされる。彼らは王権を支えつつ、清との関係維持を通じて権益を確保し、既存の身分秩序の維持に務めた。そのため農民や都市中間層の不満を十分に吸収できず、東学農民運動など社会下層の不満は高まり続けることになった。こうした民衆運動や外圧の高まりが、結果的に事大党体制の脆弱性を露呈させることになる。
日清戦争後の衰退
1894年に勃発した日清戦争で清が敗北すると、清を「上国」と仰ぎ、その軍事力と権威に依存してきた事大党の前提は根底から崩れた。冊封体制は事実上解体し、朝鮮は日本の強い影響下に置かれるようになり、清への事大を掲げる政治路線は現実性を失った。こうして事大党は急速に政治的正当性と求心力を失い、代わって日本を背景とする改革派や、民族的独立を志向する勢力が主導権を競う時代へと移行していったのである。