三長制
三長制は、北朝期の中国、特に北魏で整備された基層社会の編成原理であり、戸籍・課税・徴発・治安を一体で管理するために、一定戸数を段階的に束ね、相互監督と責任連帯を課す制度である。制度名が示すとおり三層の指導者(長)を置き、末端から上位へと情報と負担を集約することで、遊牧系王権から定住的官僚国家へ転換しつつあった政権の統治コストを大幅に下げた点に歴史的意義がある。とりわけ孝文帝期の体制整備と連動して、農村の把握と賦課の平準化を実現した点で、後世の里坊・里甲・保甲など諸制度の先駆をなす。
成立の背景
北方の鮮卑系拓跋氏が建てた北魏は、華北の広域支配を担うため、遊牧的連合から文治国家への転換を迫られていた。太武帝からの拡大後、豪族勢力の台頭や流民化が進み、戸口と耕地の把握が揺らいだ。孝文帝の洛陽遷都と漢化政策(494年頃)に先立ち、485年の均田制と並行して三長制が整備され、戸籍・賦課・徴発の実務が基層で自律的に機能する枠が与えられた。
制度の基本構造―隣・里・党と三人の「長」
- 末端単位「隣」:概ね5戸前後を束ね、隣長が日常の監督と連絡を担う。
- 中位単位「里」:複数の隣(通例5隣)を合わせ、里長が戸口・耕地・課税名簿の整合を管理する。
- 上位単位「党」:複数の里(通例5里)を統合し、党長が徴発・警邏・非常時動員の責任を負う。
このように5戸→25戸→125戸という段階的結合により、情報の上申と負担の割付が円滑化された。三層の「長」を通じ、国家は最小限の官僚投入で最大限の統治効果を得ることができ、三長制は「小さな単位の確実な把握」を原則化したのである。
目的と機能
三長制の一次的目的は、戸籍の正確化と租税・徭役・兵役の確実な賦課にある。各長は戸調の変動を監視し、虚偽申告や逃散を抑止した。また治安・相互救済にも機能が及び、有事には党単位での夜警や輸送動員が可能となった。上からの統制だけでなく、基層社会の自律的調整力を制度に組み込んだ点が特徴である。
均田制との連動
485年開始の均田制は、口分田の給付と返還を通じ、戸ごとの耕地面積を規範化した。三長制はこの土地配分と徴税の実務面を支え、隣・里・党の三層で再検証することで、名簿・地割・賦課の齟齬を最小化した。結果として、課税の予見可能性が高まり、地方の豪族的中間搾取を相対化しうる制度的テコとなった。
運用と人選
隣長・里長・党長は原則として当該共同体の有力戸から補任され、実務経験と地域信頼が重視された。任務は戸籍点検、徴発割付、訴願取次ぎ、非常時の招集など多岐に及ぶ。三長制は中央の文書主義と地方の慣行をつなぐ「翻訳装置」として働き、名目だけの規定に終わらない実効性を確保した点に強みがある。
都市と地方の接合
首都機能の整備は地方統治の再編と不可分である。孝文帝は平城(現大同)から洛陽へ遷都する前後に行政・礼制・戸籍の統合を進め、旧都平城周辺でも三長制を通じて軍糧・労役の動員を可能にした。こうした基層の再編が、都城経済の維持と長距離輸送の安定を下支えしたのである。
他制度との比較と影響
三長制は、秦漢以来の郡県的統治を基層の連座・互保の論理で補強した点に新味がある。隋唐では里坊制や兵農一致政策が整い、後世には宋の保甲、明の里甲など、戸を連結して治安・徴発を図る制度が整備されるが、基層単位を段階的に束ねるという発想は北魏的経験の継承といえる。北朝の軍事的伸長(たとえば太武帝期の拡張)や南北対峙の中、制度の先駆性は際立った。
限界と運命
もっとも、豪族の代理支配や名簿の形骸化は避けがたく、辺境の軍事危機(六鎮の乱など)が露呈すると、三長制の統制力は局地的に弱まった。北魏末の動揺や分裂を経ても、基層を段階的に束ねる発想自体は東魏・西魏、のち北斉・北周へと断続的に継承され、制度史上の記憶として生き残った。
史料と用語上の注意
史料では「三長」を里長・党長・隣長の三者とするのが通説であるが、地域や時期により戸数規模に揺れがある。制度名は同名他義の用例もあるため、北魏孝文帝期の基層統治制度を指す場合には、485年の均田制、494年の遷都、そして孝文帝の改革群との連関で把握するのが妥当である。政権の淵源や軍事環境(たとえば前段階の淝水の戦いが齎した勢力地図)にも留意すべきである。
北魏史上の位置づけ
北魏における三長制は、法令・人事・宗教政策と並ぶ基幹改革として、遊牧王権の制度化を推し進めた。王権の文化統合策(漢化政策)と相俟って、戸と地の結合を国家目線で再編した点に独自性がある。政権の長期的安定には課題を残したが、制度史・社会史の双方で評価されるべき成果である。