七月王政|ブルジョワジー主導の王政

七月王政

七月王政は、1830年の七月革命によってブルボン朝復古王政が打倒されたのち、オルレアン家のルイ=フィリップを国王として成立したフランスの立憲君主制である。国王は「市民王」と称されたが、実際には有産市民層が政治を独占したため「ブルジョワ王政」とも呼ばれる。産業革命が進むなかで、旧貴族・大ブルジョワ・都市労働者・農民の利害が鋭く対立した時期の政体として位置づけられる。

七月革命と成立の背景

復古王政期のシャルル10世は、貴族や聖職者の特権を回復し、検閲強化や選挙法改正など反動的政策を進めた。1830年の勅令発布により新聞の自由が制限されると、パリでは学生・職人・市民が蜂起し七月革命が発生した。亡命した国王に代わり、比較的自由主義的とみなされたオルレアン公ルイ=フィリップが国王に推され、ここに七月王政が誕生した。

体制の特徴と「ブルジョワ王政」

  • 憲章を改正し、国王大権の一部を制限した立憲君主制であった。
  • しかし選挙権は高額納税者に限定され、有権者は人口のごく一部にとどまった。
  • 大商人・銀行家・工場主など富裕なブルジョワジーが議会を支配し、政権の基盤を形成した。

選挙制度と支配層

七月王政の選挙制度は納税額に応じて選挙権を与える制限選挙であり、中小ブルジョワや農民、都市労働者の多くは政治から排除された。議会では保守派と穏健自由主義派が交替しつつも、いずれも有産層の利害を代表した。政治参加の門戸が狭かったことが、後の共和主義運動や社会主義思想の高まりを促す一因となった。

社会問題と反対運動

産業革命の進展により工場労働が拡大すると、長時間労働や低賃金、失業など都市労働者の生活は悪化した。リヨンの織工蜂起に象徴されるような労働争議が頻発し、共和派・急進派は普選と社会改革を要求した。40年代には景気後退と不作が重なり、生活不安が強まるなかで政権への批判が一層高まっていった。

労働者層と初期社会主義

労働者や下層市民の不満は、サン=シモン派やフーリエ派など初期社会主義思想と結びつき、「社会問題」が政治の中心課題として自覚される契機となった。後世の思想家であるサルトルニーチェは、19世紀フランス社会の矛盾を分析する際に、この時期の階級対立を重要な背景として位置づけている。

外交・植民地政策と経済

七月王政の外交は、おおむねイギリスとの協調を軸とする保守的均衡外交であった。一方で地中海世界への進出を強め、1830年代からアルジェリア征服を進めるなど植民地拡大政策をとった。鉄道や軍需産業の発展にともない、工場ではボルトをはじめとする機械部品の大量生産が進み、フランス資本主義の基盤が整えられていった。

崩壊と歴史的意義

40年代後半、グィゾー内閣は選挙法改革要求を拒み続け、その姿勢は「金持ちになりたければ選挙権を得よ」という有産層擁護の言葉に象徴された。これに反発した野党勢力は「バンケット運動」と呼ばれる政治集会を組織し、やがて1848年2月革命へと発展する。ルイ=フィリップの退位により七月王政は崩壊し、第2共和政が樹立された。この体制は、絶対王政と普選にもとづく共和政のあいだに位置する過渡的段階として、近代フランスにおける市民社会と議会政治の形成過程を示す重要な事例といえる。