ヴェルサイユ条約調印拒否
ヴェルサイユ条約調印拒否とは、1919年のパリ講和会議において、中国代表団がヴェルサイユ条約への署名を拒んだ出来事であり、とくに山東半島の帰属をめぐる不満が背景にある外交事件である。これは、列強による不平等な国際秩序に対する中国ナショナリズムの反発として位置づけられ、のちの五四運動や反帝国主義運動の重要な契機となった出来事である。
歴史的背景
第一次世界大戦中、中国は連合国側に立って参戦し、ドイツに対して宣戦布告した。中国政府は戦後処理において、列強との不平等条約の改廃や、ドイツが保有していた山東半島の権益回復を期待していた。しかし、戦争中に日本はドイツ領であった青島と山東の利権を占領し、1915年には二十一カ条の要求を中国に突き付け、山東の権益承認などを秘密裡に獲得した。こうした経緯から、戦後の山東処理は中国ナショナリズムの核心的な問題となったのである。
パリ講和会議と山東問題
1919年に開かれたパリ講和会議には、中国も敗戦国ドイツに対する戦勝国の一員として参加した。中国代表団は、ドイツが有していた山東半島の租借権・鉄道・鉱山利権などを中国へ返還させること、さらに不平等条約の改廃の端緒とすることを目指した。しかし、日本代表団は戦時中の秘密協定や二十一カ条の要求などを根拠に、山東の権益の継承を主張した。その結果、講和条約案では、山東半島の旧ドイツ権益は日本に譲渡されることが決定され、中国の要求は退けられた。
中国国内の反発と五四運動
山東が日本に譲渡されるとの情報が伝わると、中国国内では激しい反発が起こった。1919年5月4日、北京の学生たちは抗議デモを行い、これが全国に波及して五四運動と呼ばれる大規模な愛国運動へと発展した。五四運動は、帝国主義への反対だけでなく、旧来の軍閥政治や官僚制に対する批判、新文化運動とも結びつき、近代中国の政治・思想の転換点となった。このような世論の高まりは、中国政府が安易に条約調印に踏み切ることを不可能にしたのである。
ヴェルサイユ条約調印拒否の決定
パリに滞在していた中国代表団は、当初は列強との協調を重視して妥協も模索したが、国内で高まる抗議運動と「山東還我」の世論を受け、ついにヴェルサイユ条約調印拒否を決断した。1919年6月28日、各国代表がヴェルサイユ条約に署名する場において、中国代表団は署名を拒み、会場を退席した。こうして中国は、形式上はドイツとの講和条約に署名しないまま第一次世界大戦後の国際秩序の枠外に置かれる形となった。
その後の外交展開
中国はヴェルサイユ条約への署名を拒否したため、ドイツとの講和は別途交渉によって行う必要が生じた。1921年、中国はドイツと独自に講和条約を締結し、両国の国交を回復した。一方、山東問題については、アメリカ主導で開かれたワシントン会議において再び取り上げられ、1922年の山東還付に関する協定によって、日本は山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還することとなった。この過程には、列強の勢力均衡や対日牽制の思惑も働いており、戦後アジアにおける国際関係の再編の一環として理解される。
世界史における意義
ヴェルサイユ条約調印拒否は、中国が不平等な国際秩序に対して初めて明確な拒否の意思を示した象徴的事件であるといえる。これは、東アジアにおける民族自決とナショナリズムの高揚を示す出来事であり、同時期の朝鮮の三・一運動や、戦後の反帝国主義運動とも並行する動きとして把握される。また、この事件は第一次世界大戦後に構築されたヴェルサイユ体制の限界を浮かび上がらせ、のちに多くの植民地・半植民地地域で展開する民族運動の先駆的事例ともなった。中国の経験は、列強中心の国際秩序がいかに周辺地域に不満と不安定を残したかを示す重要な歴史的教訓となっている。