ヴェルサイユ体制とワシントン体制
第一次世界大戦後の国際秩序は、ヨーロッパを中心とするヴェルサイユ体制とワシントン体制によって形づくられた。前者は主としてヨーロッパの新国際秩序とドイツ処理を定め、後者は太平洋・東アジアにおける海軍軍縮と勢力範囲を調整した体制である。両者は国際連盟や軍縮、多国間条約による集団安全保障を志向したが、同時に列強間の力の不均衡や植民地支配を温存したため、多くの矛盾を抱えた秩序でもあった。
第一次世界大戦後の国際環境
1914年に始まった第一次世界大戦は、総力戦と大量殺戮によって従来の国際秩序を根本から揺るがした。戦争末期には、アメリカ大統領ウィルソンの「十四か条」が提唱され、民族自決や公開外交、国際機構の設立が謳われたが、ヨーロッパ諸国は安全保障と賠償を重視し、理想と現実のあいだで妥協を迫られた。戦後処理はパリ講和会議とワシントン会議に分かれて進められ、前者がヨーロッパ中心の講和条約群を、後者が太平洋世界の軍縮と勢力調整を担ったのである。
ヴェルサイユ体制の成立と内容
ヴェルサイユ体制は、1919年のヴェルサイユ条約を中心に、オーストリアやハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との一連の講和条約から成り立っていた。ドイツはラインラント非武装化、軍備制限、多額の賠償支払い、植民地喪失など厳しい条件を課され、新たにポーランドやチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなどの国家が誕生した。国際連盟の設立もこの体制の大きな柱であり、戦争を防ぐ常設の国際機構として期待された。
- ドイツへの軍備制限と賠償義務
- ヨーロッパ東中部における新興国の独立と国境画定
- 国際連盟を中心とする集団安全保障の構想
ヴェルサイユ体制の意義と矛盾
ヴェルサイユ体制は、一応は帝国主義列強の無制限な勢力争いを抑え、国際連盟を通じて紛争を平和的に解決しようとする「戦争抑止の枠組み」であった。その一方で、ドイツや敗戦諸国には屈辱感と経済的重圧を与え、イタリアなども「勝利なき勝利」を不満として抱えた。また民族自決は東欧の新興国家ではある程度導入されたが、植民地世界には適用されず、アジアやアフリカでは依然として列強支配が続いた。このような矛盾は、のちの独裁政権の台頭や revision を掲げる運動の温床となったと理解されることが多い。
ワシントン体制の成立
ヴェルサイユ体制と並行して、太平洋・東アジアの秩序は1921〜22年のワシントン会議で形成された。アメリカは海軍軍拡競争を抑制し、財政負担を軽減するとともに、中国市場への門戸開放と日本の膨張抑制をめざした。イギリスは日英同盟に代わる多国間協調体制を模索し、日本は列強の一員としての地位維持と安全保障を求めて会議に臨んだ。
ワシントン体制の条約構造
ワシントン会議では、主に四カ国条約・五カ国海軍軍縮条約・九カ国条約が締結され、これらがワシントン体制の中核となった。四カ国条約は、アメリカ・イギリス・日本・フランスが太平洋地域の領土保全と現状維持を相互に尊重し、紛争発生時には協議することを定めた。五カ国海軍軍縮条約では、主力艦の保有比率を英米各5、日本3、フランスとイタリア各1.75と定め、一定の軍縮と海軍競争の抑制を狙った。九カ国条約は、中国の主権と領土保全、門戸開放・機会均等の原則を確認し、列強の対中政策を国際的枠組みに組み込もうとしたものである。
- 四カ国条約による太平洋地域の現状維持と協議義務
- 五カ国条約による主力艦保有比率と軍縮のルール化
- 九カ国条約による中国の主権尊重と門戸開放原則の確認
ワシントン体制の特徴と限界
ワシントン体制は、形式上は軍縮と協調外交を通じて太平洋の平和を維持しようとした点で、ヴェルサイユ体制と同じ「協調的秩序」の一部であった。しかし、陸軍の軍備や大陸での勢力圏、経済的不平等には深く踏み込まず、日本にとっては5:5:3の比率が「不平等」として受け止められた。また、中国の主権尊重も、実際には列強の権益維持と両立する範囲でしか守られず、中国国内の民族運動や反帝国主義運動を刺激する要因ともなった。
両体制の相互関係と崩壊
ヴェルサイユ体制とワシントン体制は、地域的な対象は異なりながらも、戦後国際秩序を多国間条約と国際機構によって管理しようとする試みであった。1920年代後半にはロカルノ条約や不戦条約などが加わり、ヨーロッパでは一時的に安定が訪れたと評価されることもある。しかし、世界恐慌以後の経済危機と失業、社会不安は、ドイツや日本などの「不満国家」において権威主義体制や対外膨張政策を生み出した。こうした時代状況のなかで、ヨーロッパ思想の危機を論じたニーチェのニヒリズム批判や、戦後の実存主義を代表するサルトルの哲学は、戦争と平和、個人と国家の関係を問い直す一つの反省の表現でもあった。最終的に、日本の満州事変と国際連盟脱退、ドイツの再軍備とラインラント進駐などにより、両体制は相次いで崩壊し、第二次世界大戦へと連なっていったのである。