ローリンソン|19世紀に楔形文字の解読を進めたイギリス東洋学者

ローリンソン

ローリンソン(Sir Henry Creswicke Rawlinson, 1810-1895)は、19世紀イギリスの軍人兼東洋学者である。イギリス東インド会社の軍隊に属し、ペルシャ方面での勤務を経てオリエント研究に没頭するようになった。特にメソポタミア文明への関心が強く、古代イランのBehistun Inscription(ベヒストゥン碑文)を調査・解読した功績で知られる。楔形文字の研究において画期的な進展をもたらし、「アッシリア学の父」と称されることもある。その業績は後世のオリエント史研究や考古学の発展に大きな影響を与えた。

生涯と軍歴

ローリンソンはイングランド南部オックスフォードシャーに生まれ、若くして東インド会社の軍隊に入隊した。派兵先のペルシャでは軍事顧問として活動する一方、現地の文化や歴史にも強い関心を抱いた。当時のイギリスは中央アジアや中東での影響力拡大を目指していたため、彼の知識と語学力は軍事外交の面でも重宝されたと考えられている。軍歴を積む中で得た経験と人脈が、のちの研究活動に大きく寄与することになった。

ベヒストゥン碑文との出会い

ペルシャ滞在中に知ったBehistun Inscription(ベヒストゥン碑文)は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世による記念碑文である。高さ数十メートルの絶壁に刻まれた楔形文字を読み解くことは当時、極めて困難とされていた。ローリンソンは危険な崖をよじ登るなど過酷な調査を重ね、各種碑文の断片をノートに書き写した。彼はこれらの資料を英国に送付しつつ、独学で楔形文字の解読を進めていった。

楔形文字解読への挑戦

19世紀前半にはロゼッタ・ストーンの解読成功によりエジプト研究が熱を帯びていたが、メソポタミアの楔形文字は依然として謎が多かった。ローリンソンは碑文が複数言語で書かれている点に着目し、当時の学者たちとも協力しながら、古代ペルシア語・エラム語・バビロニア語の対応関係を見いだすことに成功した。これにより、メソポタミア文明研究は飛躍的な進展を遂げ、多数の粘土板文書や王名表の解読が可能になった。

研究成果の公表

  • 1840年代に英国の学会で初めて碑文の写しを紹介
  • 1840年代後半から1850年代にかけて解読結果を続々と発表
  • 王の系譜や歴史的出来事を明らかにした多言語対照表を提案

議会活動と晩年

学者としての顔だけでなく、ローリンソンは下院議員としても政治活動に携わった。外交問題やオリエント政策への発言が注目され、当時のイギリスが進める植民地政策にも一定の影響を及ぼした。晩年はイギリスで研究活動に集中し、各種古代文献の注釈や研究を続けながら、博物館や研究団体との連携を深めた。1895年に没したが、楔形文字解読における先駆的業績は今なお評価されている。

後継者への影響

彼が構築した研究基盤は後続の考古学者や東洋学者によって継承され、アッシリア・バビロニア文明のさらなる発掘・分析が進んだ。ローリンソンの残した碑文の翻訳や注釈は、メソポタミアだけでなく古代近東全般の歴史編纂にも不可欠な資料となっている。ドイツやフランスの研究者もこれらの成果を参照しながら、オリエント学を体系化していった。その意味で、ローリンソンの業績は学界の垣根を越えて大きな足跡を残したといえる。

考古学界での位置づけ

19世紀の大英博物館や王立アジア協会などで行われた数多くの展示や講演は、ローリンソンの貢献を広く世に知らしめた。彼の成果はメソポタミアの都市遺跡発掘やオリエント史学の礎となり、新たな分野の確立に貢献した。彼自身は本格的な考古学調査を指揮するわけではなかったが、その知見や理論は後続の現地発掘団に影響を与え、古代文化を再発見する原動力となった。

評価と遺産

メソポタミア文明の復元に欠かせない楔形文字解読を成し遂げたローリンソンは、文学・宗教・政治体制などの理解を飛躍的に進めた人物として高い評価を受けている。現代のオリエント研究においても、その残した翻訳や論文は参照されることが多く、イギリスの学術機関では彼の功績を記念する碑や展示が設けられている。こうした遺産を通じて、19世紀の情熱と知的探究がどのように学問を変革し、世界史の解明に寄与したかが改めて認識されている。