レオン3世
レオン3世(在位717-741)は、ビザンツ帝国の再建を主導した皇帝であり、第二次アラブ軍のコンスタンティノープル包囲を撃退し、軍政と法制を引き締め、のちに帝国と教会世界に深い亀裂を生む「聖像禁止」を開始した統治者である。シリア・イサウリア系の出身とされ、本名はコンノンと伝わる。彼の治世は、外敵の脅威から帝都を守り抜いた軍事的成功と、法典『エクローガ』による実務的な改革、そして宗教政策をめぐる西方との対立という三点によって特徴づけられる。
即位の背景と即位過程
レオン3世が頭角を現したのは、内乱と外圧が重なる混迷期であった。アナトリアの将軍としてテマ軍を掌握し、混乱の中で軍事的実績を積むと、717年に帝位に就いた。イサウリア地方の結束と将軍層の支持は、のちに「イサウリア朝」と総称される政治秩序の基礎となり、統治の優先順位はまず国境防衛と徴税・軍役の安定化に置かれた。
コンスタンティノープル防衛(717-718年)
即位直後、ウマイヤ朝は陸海から大規模な包囲を仕掛けた。レオン3世は「ギリシア火薬」を駆使した海上防衛と堅固な城壁防衛を組み合わせ、さらにブルガール人(ハーン・テルベル)の援助を引き出すことで持久戦に成功した。厳冬と疫病、補給線の遮断によりアラブ軍は撤退し、帝国は壊滅的危機を回避した。この勝利は帝都の神聖性と皇帝権威を再確認させ、徴税・補給・兵站の再編に向けた政治的余地を生んだ。
軍政再編とテマ制の運用
レオン3世はテマ制の実効性を高め、前線の司令官に応分の裁量を与えつつ乱脈な徴税や特権の濫用を抑えた。海軍テマの訓練と艦隊整備はエーゲ海の制海力を維持し、海賊化した勢力の摘発も進められた。農民の軍戸は兵役と土地保有を結ぶしくみの中で再整理され、国庫収入と国境防衛の双方を支える基盤となった。
法制改革―『エクローガ』の公布
726年頃、レオン3世は法典『エクローガ』を公布した。これは『ユスティニアヌス法典』の膨大さと複雑性を現場向けに簡潔化し、刑罰の相対的な軽減や家族法・相続法の明確化を志向する実務的改編であった。理念は神意と帝権の調和に置かれ、判決の予見可能性と地方官の統制強化を狙うもので、財産処分や婚姻・離婚の扱いにも現実的配慮が加わった。
聖像禁止令と教会政策
726年の火山噴火など天変を契機に、レオン3世は聖像崇敬を批判し、730年に聖像不許可の方針を明確化した(いわゆる「聖像禁止」)。これは偶像崇拝の回避と信仰の純化を掲げる神学的主張であると同時に、修道院勢力の財政・社会的影響力を抑制し、皇帝が教会規律を統御する「皇帝教皇主義」的傾向を帯びた政策であった。総主教座では政策遂行が進んだが、修道院や都市の信徒からの抵抗も強く、帝国内部に長期の宗教対立の火種を残した。
ローマとの対立と西方世界への波及
教皇グレゴリウス2世・3世は聖像破壊に反対し、レオン3世はこれに対抗してイリュリクムや南イタリアの教会管轄をコンスタンティノープル側へ移すなどの措置を取った。結果としてローマは東方皇帝から距離を取り、フランク王国との接近を強める政治環境が育った。イタリアにおける帝国の実効支配は次第に後退し、ローマ教会とフランク勢力の結合は、のちのカロリング的秩序形成の前提となった。
内政・財政の引き締め
レオン3世は徴税体系の簡素化と取りこぼし削減を図り、地方官の監督を強めた。貨幣の信認維持、都市防衛の整備、交易ルートの保護は、小規模生産と地域市の活性化を通じて税源を安定化させた。併せて、軍役免除の乱れを是正し、反乱や私兵的勢力の成長を抑えることで、帝権の浸透を確保した。
後継体制と対内安定化
720年には息子コンスタンティノス(のちのコンスタンティノス5世)を共同皇帝とし、継承を安定させた。彼の没後に露わになる宗教対立や反乱の火種は残ったものの、対外防衛と財政の再建、法と統治の枠組み整備という遺産は、帝国の長期的持続を可能にした。
史的評価
レオン3世の評価は二分される。軍事・行政の手腕と都市防衛の成功は高く評価される一方、聖像禁止は信仰生活と文化に大きな亀裂を生み、イコノドゥロイ(聖像擁護派)との対立を長期化させた。しかし、危機のただ中で国家の再編に踏み切り、帝国の存続を確かなものとした点で、彼は中期ビザンツ史の転換点を画した君主である。
主な年表
- 717年:即位、アラブ軍の包囲開始
- 718年:包囲解放、帝都防衛に成功
- 726年頃:『エクローガ』公布、聖像崇敬批判を公然化
- 730年:聖像禁止を明確化
- 720年・741年:共同皇帝任命と死去、体制継承へ