ル=シャプリエ法|労働団結禁止と営業自由

ル=シャプリエ法

フランス革命期のフランスで制定されたル=シャプリエ法は、1791年に職人や労働者の団結、ストライキ、職業団体の結成を禁止した法律である。ギルドや同業組合など旧体制以来の職能団体を解体し、個人単位の自由競争を徹底することを目的としたが、その結果として労働者の団結権を長期にわたり封じ込める役割も果たしたと評価される。

制定の背景

1789年のバスティーユ牢獄襲撃ヴェルサイユ行進を経て、フランスでは旧体制の解体が急速に進んだ。第三身分を中心とする代表がテニスコートの誓い球戯場の誓いを通じて主導権を握り、やがて憲法制定議会を形成し、封建的秩序の再編に着手したのである。

この過程で、議会は「人は自由で平等な権利をもつ」と宣言した人権宣言や、身分制度を支える領主的権利を取り払う封建的特権の廃止などを次々と決議した。こうした改革は、身分・コーポラシオンに基づく中世的な社会構造を否定し、市民個人を権利主体とする社会を構想するものであり、その流れの中でル=シャプリエ法も構想されたのである。

法の内容

ル=シャプリエ法は、職業団体や労働者団体を「公共の秩序に反する結社」とみなし、組織の結成・加入・活動そのものを禁止対象とした点に特徴がある。法律名は法案を提出した革命期の政治家ル=シャプリエに由来し、議会多くの支持を得て成立した。

  • あらゆる職業団体・同業組合の結成禁止
  • 賃金引き上げや労働条件の改善を目的とする同盟・協定の禁止
  • ストライキや集団行動を刑事罰の対象とする規定
  • 職人・労働者だけでなく使用者側の団体行動も規制対象とする建前

このように法律は、表向きには労働者と雇用主双方の結託を禁じる「中立的」規制として表現されたが、実際には賃金交渉や条件改善のために団結しようとする労働者側により強く作用したとされる。

市民的自由と経済自由主義

革命指導層の多くは、身分やコーポラシオンに基づく特権を嫌い、個人単位の契約と所有を重視する自由主義的理念を共有していた。彼らにとって、ギルドや同業組合は旧体制の「特権」に近い存在であり、市民の自由な職業選択と企業活動を妨げるものと映ったのである。

そのためル=シャプリエ法は、経済活動の自由化を掲げつつ、集団としての交渉力を持つ労働者組織を排除する方向で機能した。教会組織を国家管理下においた聖職者基本法や、革命財政を支える紙幣であるアッシニアの発行と同様、法律によって新しい市民社会と国家財政の枠組みを作り出そうとした試みの一部であったと理解できる。

労働者と市民社会への影響

ル=シャプリエ法の最大の帰結は、労働者が合法的に団結し、組織的に賃金や労働条件を交渉する道を閉ざしたことである。職人や工場労働者が賃下げや失業に直面しても、ストライキや組合結成は犯罪となり、多くが地下的・非合法な形でしか連帯できなくなった。

その一方で、個々の市民は法の下の平等と財産権の保護を享受し、中産市民層が中心となる市場経済が拡大した。こうした状況は、政治的権利の拡大と社会経済的な不平等が併存する革命後フランス社会の特質をよく示しているといえる。

政治勢力との関係

ル=シャプリエ法は、王権と議会の妥協による立憲王政を構想した穏健派ブルジョワに支持された。彼らは、民衆運動が過度に激化すれば私有財産が脅かされると恐れ、社会的緊張を抑えるためにも団結禁止法を必要としたのである。

一方、急進的な民衆運動を取り込んで政治的影響力を広げていったジャコバン=クラブや、穏健派指導者ミラボーらの姿勢は時期と立場によって揺れ動いた。だが総じていえば、革命指導者たちの多くは、自由な市民社会の構築と同時に、下層民衆の自律的な組織化には疑念と警戒を抱いていたのである。

歴史的意義

ル=シャプリエ法は、その後19世紀を通じてフランスにおける労働運動の発展を拘束し続けた。後世になって労働組合やストライキが一定の条件の下で合法化されると、この法律は「自由主義的革命」が生み出した社会的限界の象徴として批判的に論じられるようになった。

身分制と特権を打破し、形式的な法の下の平等を実現しようとしたフランス革命は、一方で労働者の集団的権利を制限する制度を生み出した。その矛盾を体現する法律として、ル=シャプリエ法は近代市民社会の光と影を考えるうえで重要な位置を占めているのである。