ルイ18世
ルイ18世は、ブルボン家出身のフランス王であり、ナポレオン失脚後に成立した復古王政期の君主である。彼は兄であるルイ16世の処刑後、王党派の間で「フランス王」を自称し続け、やがて1814年と1815年の二度にわたってフランス王位についた。革命とナポレオン戦争によって大きく変容したフランス社会の上に、王政と近代的制度を折り合わせることを目指した点に特徴がある。
生い立ちとブルボン家の一員として
ルイ18世は1755年、ブルボン家の一員として誕生し、若い頃にはプロヴァンス伯として宮廷社会で活動した。彼が属したブルボン朝は、絶対王政の典型とみなされるフランス王家であり、長く欧州政治の中心にあった。こうした旧体制の宮廷文化と貴族社会の価値観は、彼の政治観や宗教観の基盤となり、生涯にわたって影響を与えた。
フランス革命と亡命生活
1789年にフランス革命が勃発すると、王権は急速に動揺し、兄ルイ16世と王妃マリー=アントワネットはやがて処刑された。王家の一員であったルイ18世は革命期にフランスを脱出し、各国を転々とする亡命生活を送った。彼は亡命貴族や王党派をまとめ、諸外国の君主たちに旧王政復活を訴え続け、ヨーロッパ反革命勢力の一角を担う存在となった。
ナポレオン失脚と復古王政の成立
ナポレオンがライプツィヒの戦いや各地の戦争で敗北すると、1814年に連合軍はパリに進軍し、ナポレオンは退位に追い込まれた。このとき連合国は、正統な王家をフランス王位に復帰させる方針をとり、亡命先にいたルイ18世をフランスへ迎えた。こうして彼は「復古王政」の君主として即位し、ブルボン家による王政が一時的に復活することになった。
1814年憲章と立憲君主制
ルイ18世は、絶対王政の単純な復活では社会を安定させられないと認識していた。そこで彼は「1814年憲章」と呼ばれる基本法を制定し、王権と議会が共存する立憲君主制の枠組みを受け入れた。この憲章は、ナポレオン期に整備された行政制度や法典の多くを維持しつつ、貴族や教会の地位を一定程度回復させるものであり、旧体制と近代市民社会の折衷を図ろうとした点に特徴がある。
百日天下と再度の亡命
しかし1815年、エルバ島に流されていたナポレオンがフランスに帰還し、いわゆる「百日天下」が始まると、ルイ18世は再び国を離れて亡命を余儀なくされた。ナポレオンは短期間ながら政権を取り戻したが、ワーテルローの戦いで敗北し再度退位すると、連合国は再びブルボン家の復位を決定した。こうしてルイ18世は二度目の即位を果たし、復古王政は「第二次復古」と呼ばれる段階へ移行した。
復古王政の政治と社会的対立
復位後のルイ18世は、王党派強硬派と、革命・ナポレオン期の成果を重視する穏健派のあいだでバランスを取ろうとした。彼の周囲には亡命貴族や聖職者を支持基盤とするウルトラ王党派が存在し、彼らは革命期の処罰や特権回復を強く求めた。一方で、都市の有産市民や官僚層はナポレオン期の制度維持を望み、ウィーン会議後のヨーロッパ秩序のもとで安定した政治を求めたため、政権内部には常に緊張が続いた。
ウィーン体制と国際秩序の中のルイ18世
ルイ18世の統治は、ナポレオン没落後に形成されたウィーン体制の一環として位置づけられる。ヨーロッパの列強は、フランスを再び大国として国際社会に復帰させつつも、革命と拡張戦争の再発を防ぐことを重視した。そのためフランスは、列強協調の枠組みの中で、旧王政の伝統と近代国家としての制度を両立させることを求められ、ルイ18世はその難しい舵取りを担ったのである。
晩年とその評価
ルイ18世は1824年に死去し、王位は弟のシャルル(シャルル10世)に引き継がれた。彼の統治は、専制君主というより、革命とナポレオン時代を経た社会を前提とした妥協的な王としての性格が強いと評価される。旧来の貴族社会と新興市民社会との対立を完全に解消することはできなかったが、戦争に疲弊したフランスを大きな混乱なく国際秩序へ復帰させた点で、ルイ18世は復古王政期の中心人物として歴史に刻まれている。