ラッバン=ソウマ|元とイルハンを結ぶ修道士

ラッバン=ソウマ

ラッバン=ソウマは、13世紀後半にユーラシアを横断して活躍した東方キリスト教(Church of the East)の修道士・外交使節である。元朝領の北中国に生まれ、修道生活ののち聖地巡礼を志して西へ向かい、最終的にイラン高原のイル=ハン国に定着した。彼は同政権の対外戦略の一環として欧州諸王やローマ教皇庁との交渉を担い、地中海世界と東方社会をむすぶ「逆マルコ=ポーロ」の視線で欧州を記録した人物として知られる。旅の報告には典礼・聖遺物・王権儀礼の描写が多く、ユーラシア規模の流通路・通信制度・宗教状況を同時代的に照射する貴重な史料価値をもつ。

出自と修道生活

ラッバン=ソウマはモンゴル帝国の統合下で多言語・多宗教が交錯した北中国に育ち、東方キリスト教の修道士として厳格な隠遁と学習を積んだ。都市と草原を貫く交易・駅伝網の整備(ヤム)は修道者や使節の移動を支え、聖典言語の習熟と通訳的技能は、のちの外交任務の基礎となった。彼の宗教的訓練は断食・長期祈祷・巡礼志向を核とし、共同体運営における規律の内面化が顕著であった。

西アジアへの巡礼と移住

聖地エルサレムを目指したラッバン=ソウマと弟子は、戦況や航路の事情からルートを変更しつつ西遷し、メソポタミアやアゼルバイジャンを経てイル=ハン国の宮廷圏に入った。そこで東方キリスト教徒のネットワークと結びつき、教会指導層との縁により在地での宗教・通訳・交渉の役割を担うに至る。元来の巡礼者としての清貧・規律は、宮廷社会にあっても高い信頼の源泉となった。

イル=ハン国の使節としての欧州訪問

ラッバン=ソウマは、シリア方面で対立したマムルーク朝に対抗するため欧州諸国との協調を模索したイル=ハン国政権の使節に抜擢された。彼はコンスタンティノープル経由でローマ教皇庁、フランス王フィリップ4世、ガスコーニュに滞在していたイングランド王エドワード1世らと謁見したとされ、軍事同盟や遠征再開の可能性を協議した。最終的な共同作戦は実現しなかったが、相互理解と情報交換の枠組みを具体化し、欧州宮廷に東方キリスト教徒・モンゴル世界の実像を伝える役目を果たした。

訪欧の主要行程(年次概略)

  • 1280年代後半:カスピ海北岸から黒海沿岸を経由しコンスタンティノープルへ進出
  • ローマ:教皇庁での謁見・書簡交換を実施、聖遺物・典礼の視察を記録
  • パリ:フランス王宮で対マムルーク協調の議題を提示
  • ガスコーニュ(ボルドー周辺):エドワード1世と謁見、軍事的条件や実施時期を協議
  • 帰路:アナトリア・アルメニア方面を経てイル=ハン宮廷へ復帰、報告を提出

記録と史料的価値

ラッバン=ソウマの旅行記録は、東方キリスト教徒の視角から欧州の宗教儀礼・宮廷秩序・都市景観を描き、同時代欧州像の異文化的補正を可能にする。また、ユーラシアの知識循環を象徴する史書としては、ペルシア語で編まれた集史と、編者ラシード=アッディーンの記述が知られ、彼の活動や東西交渉は宮廷学知の集約過程にも位置づけられる。これらは外交文書・使節報告・商人の口述が往還した時代の情報生態系を示す重要証拠である。

ユーラシア統合の文脈

13世紀のユーラシアは、草原と農耕世界が結節した巨大な連絡網のもとにあった。駅伝制と通行保護は使節や行商の移動を保障し、モンゴル支配圏は黒海・カスピ海・オアシス都市を縫う広域市場を成立させた。東欧・ロシアではキプチャク=ハン国の朝貢体制とタタールのくびきが秩序を規定し、黒海商業は欧州宮廷の財政・外交を動かした。こうした結合の上にラッバン=ソウマの往復は成立しており、その移動は内陸アジア世界・東アジア世界の形成という長期過程の具体相でもあった。

宗教的アイデンティティと交渉術

ラッバン=ソウマは、修道者としての敬虔と宮廷の実務感覚を兼備し、異文化間で誤解の芽を摘む通訳・説明の技法を磨いた。偶像破壊や典礼形式の差異、聖地支配の問題など敏感な論点を避けるのではなく、相手の法と慣行を尊重しつつ共通利益(巡礼の安全、交易の安定、対外抑止)の語彙へ橋渡しする姿勢を貫いた。彼の交渉術は、イスラーム受容を進めたガザン=ハン期の制度調整や、草原世界の合議的慣行とも親和的であった。

意義と位置づけ

ラッバン=ソウマは、宗派・言語・政治体制を横断する「移動のプロ」であり、東西が同時代的に出会う場を具体的交渉に引き下ろした希有の人物である。彼の旅は、遠隔地の王権が互いを抽象的に想像する段階から、書簡・贈与・誓約という実務へ進む際の試金石であり、結果が限定的であっても、その往還が生んだ情報と経験は後世の史家・地理家・年代記作者を刺激した。ユーラシアの政治地図が改変された時代、バトゥらが切り開いた西方ルート(バトゥ)の上に、修道士の足取りと文書の連鎖が重ね書きされていく。その重なりこそが、彼の名を歴史に刻む理由である。