ライスワイク条約|ヨーロッパ秩序を調整する講和

ライスワイク条約

ライスワイク条約は、1697年にオランダ共和国内のライスワイクで締結された講和条約であり、ルイ14世の対外拡張政策によって引き起こされたヨーロッパ全土の大戦争を終結させた重要な国際条約である。これは、いわゆるプファルツ継承戦争(九年戦争)を終わらせ、戦争前の勢力均衡に近い形へと戻すことを目的とした講和であり、同時代の人々にとっては、長期戦で疲弊した国家財政と社会を立て直すための妥協の産物であった。

歴史的背景

17世紀後半、フランス王ルイ14世は再統合法や一連の対外戦争を通じて領土拡張を進め、ヨーロッパの優位を目指した。これに対し、ドイツ諸邦を擁する神聖ローマ帝国、ハプスブルク家が支配するスペイン、商業・海運の強国であったオランダや、名誉革命後にウィリアム3世が即位したイギリスなどが反フランスで結集し、アウクスブルク同盟を結成した。この同盟側とフランスとの全面戦争がプファルツ継承戦争であり、その主戦場はドイツ西部や低地地方のネーデルラント、さらには海上や植民地へと広がった。

講和会議の開催と交渉

長期にわたる戦争によって、交戦諸国は財政難と人的損耗に苦しんだ。特にルイ14世のフランスは、内政の不満や税負担の増大を抱え、戦争継続は困難になりつつあった。他方、イギリスやオランダも海上戦と陸戦の両面で多大な出費を余儀なくされていた。このため各国は、完全な勝利よりも一定の安全保障と面子を保ちつつ講和に踏み切ることを選び、オランダのライスワイクに各国代表が集まった。会議では、フランスの拡張をどこまで容認するか、戦前の領土と権利をどこまで回復させるかが最大の争点となった。

主な条項

ライスワイク条約は多国間条約であり、フランスとイギリス、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国などとの間で個別の文書が取り交わされたが、その内容はおおむね以下のように整理できる。

  • フランスは、イングランド国王としてのウィリアム3世を正式に承認し、亡命中のジェームズ2世への支援を放棄した。これはイギリスの名誉革命体制を国際的に追認する意味を持った。
  • フランスは、戦争中に占領したドイツ西部の複数の要塞都市を返還し、ライン川流域の一部を戦前の状態に戻したが、一方でアルザスの多くやストラスブール支配は維持し、面子を保った。
  • スペインとの間では、ネーデルラントやルクセンブルクなどで失われた領土の多くが回復され、フランスはピレネー以西の一部占領地から撤兵した。これにより、スペイン領ネーデルラントは再びフランスに対する緩衝地帯として位置づけられた。
  • 海上および植民地では、戦争中に占領した拠点や船舶の多くが相互に返還され、北アメリカやカリブ海、インド洋での勢力争いは一時的に小康状態を迎えた。

国際関係への影響

ライスワイク条約は、ルイ14世の拡張が一定の歯止めをかけられたことを示す一方で、フランスの大国としての地位を依然として認める妥協的な解決であった。戦争前と比べると、領土の純増は限定的であったが、アルザスの保持やストラスブールの獲得は、フランス東部国境の安全保障にとって大きな意味を持った。他方、イギリスとオランダは、フランスの優位を完全にはくじけなかったものの、金融制度や常備軍体制を整備し、大陸政治に強く関与しうる「財政軍事国家」としての性格を強めた。こうしてヨーロッパでは、単独覇権を防ぐための同盟と講和によって均衡を保つ「勢力均衡」の外交が、より明確な原理として意識されるようになった。

スペイン継承問題との連続性

しかし、ライスワイク条約はヨーロッパの対立を根本的に解決したわけではなかった。とりわけ、後継者を欠くスペイン王カルロス2世の王位継承問題は棚上げされたままであり、フランスとオーストリア・ハプスブルク家の双方がその遺産を狙っていた。条約は一時的な平和と戦後処理を与えたものの、財政や軍事体制を強化した諸国は、次の大戦に備えつつ静かな駆け引きを続けることになる。その数年後に勃発するスペイン継承戦争は、まさにライスワイク体制の限界と、ルイ14世の影響力を再びめぐる大規模な争いであり、この条約はその前奏曲として歴史上の位置を占めているのである。