ヨッフェ
ヨッフェ(Adolf Abramovich Joffe, 1883-1927)は、ロシア革命期のボリシェヴィキ活動家であり、のちにソビエト外交を代表した重要な外交官である。ブレスト=リトフスク講和交渉における代表、ドイツ・中国への代表派遣、党内ではトロツキー派と結びついた左翼反対派の一員として知られ、ソビエト連邦外交と世界革命構想の双方に深く関わった人物である。
若年期と革命運動への参加
ヨッフェはロシア帝国南部クリミアの比較的裕福な家庭に生まれ、早くから帝政への反感を強めてロシア社会民主労働党に参加した。当初はメンシェヴィキ寄りであったが、亡命先のウィーンなどでトロツキーと行動をともにしつつ、帝政打倒と社会主義革命の必要性を唱えた。こうした経歴は、のちにボリシェヴィキに合流してからも、理論志向が強く国際主義的な立場をとる基盤となった。
ブレスト=リトフスク交渉と講和政策
1917年の十月革命後、ヨッフェはソビエト政府の代表として中央同盟国との講和交渉に参加し、ブレスト=リトフスクでの会談団のトップとなった。彼はレーニンの「即時講和」路線とトロツキーの「戦争も平和も結ばない」路線の板挟みになりつつも、ドイツ側の過酷な条件に抵抗し、革命の拡大を期待する姿勢を示した。最終的な条約調印は別の代表によって行われたが、ヨッフェの態度は、革命政権が帝国主義的講和に妥協しないという象徴的な姿として記憶されている。
ドイツ駐在大使としての活動
ブレスト=リトフスク交渉後、ヨッフェは新生ソビエト政権のドイツ駐在大使となり、ワイマール期初頭のドイツとの関係構築に努めた。彼は戦後の不安定なヨーロッパ情勢の中で、敗戦国ドイツと革命ロシアが協調することで、ヴェルサイユ体制に対する対抗軸を形成しうると考えた。この姿勢は、後のラパロ条約などに結実するソビエト・ドイツ接近の先駆けと評価される。
中国派遣と孫文・ヨッフェ宣言
1920年代初頭、ヨッフェはソビエトの対中国代表として広東や北京に派遣され、軍閥割拠と列強支配に揺れる中国情勢と向き合った。第一次世界大戦後の中国では、パリ講和会議への失望から五四運動が起こり、対外不平等条約の撤廃と民族独立を求める高揚が続いていた。北京政府を握る段祺瑞ら軍閥の権力抗争の中で、ヨッフェはソビエト政府が帝政ロシア時代の対中不平等条約を放棄する方針を示し、中国の民族運動との連携を模索した。
国共合作とソビエト対中政策
広東では孫文が中国国民党を基盤に革命政府の再建を進めており、ヨッフェは孫文との交渉を通じて有名な「孫文・ヨッフェ宣言」を発表した。この宣言は、中国革命がブルジョワ民主主義の段階にあることを認めつつ、帝国主義と軍閥に対抗する民族統一戦線を提唱し、国民党とソビエトとの協力の原則を示したものである。ここから、のちに中国共産党と国民党の提携、すなわち国民党と共産党の第一次国共合作へとつながる路線が形成されていく。同時期の対中国政策では、条約放棄をうたったカラハン宣言もあわせて、ソビエトが反帝国主義・民族自決を掲げる新たな外交イメージを打ち出した。
党内闘争と晩年
帰国後、ヨッフェは健康悪化に苦しみながらも、党内でトロツキーを中心とする左翼反対派に同調した。スターリン主導の指導部が一国社会主義路線と官僚的集権を強めていく中で、彼は党内民主主義の縮小や国際革命路線の後退を批判したため、外交の第一線から外され、治療名目で国外に送られた。1927年、左翼反対派への弾圧が強まる中で帰国を命じられたヨッフェは、政治活動の自由を奪われたことに抗議して自殺し、トロツキー宛ての書簡を残したと伝えられる。その死は、党内の多様な議論が許されていた初期ソビエトの終焉と、スターリン体制の確立へ向かう転換点を象徴する出来事とみなされている。
歴史的評価
ヨッフェは、レーニンやトロツキーのような最高指導者ではないものの、革命外交の現場で帝国主義体制に対抗する線を追求しつつ、中国をはじめとするアジアの民族運動との連携を具体化した人物である。ブレスト=リトフスク交渉、ドイツとの接近、中国における国共合作構想など、彼の足跡は20世紀前半の国際秩序と革命運動の交錯を理解するうえで重要な手がかりを提供している。