モンロー|アメリカ第5代大統領と外交

モンロー

ジェームズ・モンローは、アメリカ合衆国第5代大統領であり、いわゆる「ヴァージニア王朝」の最後の大統領として知られる人物である。彼は独立戦争への参戦、外交官としての経験、さらに国務長官・陸軍長官を歴任したのち大統領となり、「良い感情の時代」と呼ばれる比較的安定した時期を指導した。とりわけ、欧州列強の新たな植民地化を拒む外交方針「モンロー主義」を打ち出し、以後のアメリカ外交と西半球の国際秩序に大きな影響を与えた。彼の時代には、国内の領土の拡大や市場経済の成長が進む一方で、奴隷制をめぐる対立も顕在化していた。

生涯の概要

モンローは1758年、ヴァージニア植民地に生まれた。若くして法律を学び、のちに第3代大統領となるトマス・ジェファソンの教えを受けて共和主義思想に共感した。アメリカ独立戦争が始まると大陸軍に志願し、前線で負傷するなど戦争経験を積む。この軍歴とヴァージニアの名門人脈が、のちの政治的・外交的キャリアの基盤となった。

青年期と独立戦争

青年期のモンローは、ジョージ・ワシントン指揮下の部隊に属し、デラウェア川渡河作戦などの戦闘に参加した。彼は将校として勇敢に戦い、負傷しながらも独立の達成を最後まで見届ける。戦後は軍務を離れ、ヴァージニアで法律家として活動しつつ、州議会や連邦議会に進出して政治家としての道を歩み始めた。

外交官としての活動とルイジアナ買収

1790年代から1800年代初頭にかけて、モンローはフランスおよびイギリス駐在の外交官として派遣され、混乱する欧州情勢のなかでアメリカの利益擁護に努めた。とくにジェファソン政権下では、フランスとの交渉によりミシシッピ川以西の広大な領土を取得するルイジアナ買収の実務に深く関与した。これは合衆国の急速な西方拡大の出発点となり、のちの北米大陸支配の基盤を築くことになる。

政界での台頭とリパブリカン党

モンローはヴァージニア州知事を務めたのち、ジェファソンやマディソンと同じ共和派政党であるリパブリカン党(民主共和党)の有力政治家として台頭した。マディソン政権では国務長官や陸軍長官を兼任し、対イギリス戦争であるアメリカ=イギリス戦争1812年戦争)の終結過程に関わった。こうした経験により、彼は外交・軍事両面に通じた指導者として評価され、第5代大統領に選出される。

第5代大統領と「良い感情の時代」

1817年に就任したモンローの政権期は、連邦党が衰退し、事実上リパブリカン党の一党支配が続いたことから「良い感情の時代」と呼ばれる。彼は国内融和を重視して各地域から閣僚を登用し、道路や運河建設などの内部改良を後押しした。一方で、ミズーリ準州の奴隷制をめぐる対立が激化し、ミズーリ協定が成立するなど、合衆国の拡大とともに奴隷制問題が政治課題として浮上した時期でもあった。

モンロー主義の背景と内容

1823年、モンローは議会への年次教書で、のちに「モンロー主義」と呼ばれる原則を示した。これは、欧州列強によるアメリカ大陸への新たな介入や植民地化を牽制し、西半球におけるアメリカ合衆国の特別な地位を主張するものである。その背景には、スペイン植民地の崩壊とブラジルの独立を含むラテンアメリカ諸国の独立運動、さらに英米関係の改善と通商拡大への期待があった。

  1. 欧州列強による新たな植民地獲得・干渉をアメリカ大陸で認めないこと
  2. 欧州の内政・戦争に合衆国は原則として不介入を保つこと
  3. すでに成立した独立国家の自由と安全を尊重すること

ラテンアメリカ独立と西半球秩序

モンローの主張は、スペイン帝国支配から解放されつつあったラテンアメリカ諸国、とくにクリオーリョ指導層や地方軍事指導者カウディーリョが作り上げた新国家の承認と密接に結びついていた。欧州の再植民地化を拒むモンロー主義は、形式上はこれら新国家の独立を擁護する立場を取りつつ、長期的には合衆国が西半球における主導権を握る口実ともなった。また、こうした地域ではメスティーソやムラートといった多様な人種・身分集団が政治社会の再編に巻き込まれており、モンローの外交はそれらを取り囲む国際環境を形作る役割を果たした。

晩年と歴史的評価

大統領職を退いたモンローは、財政的な困難を抱えつつもヴァージニアやニューヨークで余生を送り、1831年に死去した。彼の名を冠したモンロー主義は、その後19世紀末の米西戦争や20世紀のアメリカ外交において再解釈され、ときに西半球への干渉を正当化する論拠として用いられた。他方で、独立期以来の共和主義的理想と、西方への領土の拡大・市場拡張を同時に体現した大統領として、モンローはアメリカ合衆国の国家形成史において重要な位置を占めている。