モンゴル人民共和国|社会主義政権の誕生とその影響

モンゴル人民共和国

モンゴル人民共和国は、1924年から1992年まで現在のモンゴル国に存在した社会主義国家である。清朝支配からの独立運動とロシア革命の影響を受けて成立し、ソビエト連邦の強い影響下で一党独裁体制と計画経済を採用した国家として、20世紀東アジア史において重要な位置を占める。

成立の背景

1911年の辛亥革命で清朝が崩壊すると、外モンゴルでは活仏ボグド・ハーンを国家元首とするモンゴル王国が成立した。しかし中華民国はこの地域を自国領とみなし、軍を派遣して再支配を図った。これに対し、ロシア革命後のソビエト政権と連携したモンゴル人民革命派が1921年に武装蜂起し、中国軍や旧体制勢力を排除した。その後、1924年にボグド・ハーンが死去すると君主制は廃止され、人民政権としてモンゴル人民共和国が宣言された。

政治体制と憲法

モンゴル人民共和国は、モンゴル人民革命党による一党支配体制を特徴とした。1924年憲法は「人民民主主義国家」としての性格を規定し、私有財産の制限や土地・主要産業の国有化の原則を明記した。のちに1940年憲法、1960年憲法が制定され、国家機構や社会主義建設の理念が再確認されたが、実際の権力は党指導部とソビエト連邦の指導に強く依存していた。

経済政策と社会主義建設

経済面では、遊牧牧畜を基盤とする伝統社会を計画経済へ組み込む政策が進められた。家畜や牧草地の社会主義的改編として生産協同組合が組織され、都市部では鉱業や軽工業が育成された。首都ウランバートルには工場や行政機関が集中し、道路・鉄道などのインフラもソビエトの援助で整備され、遊牧中心の社会から定住化と都市化が進展した。

宗教政策と大粛清

伝統的にモンゴル社会はチベット仏教が強い影響力を持っていたが、1930年代にはソビエトのスターリン体制にならった反宗教政策と政治粛清が行われた。多くの僧院が破壊され、僧侶や知識人が弾圧・処刑されたことはモンゴル人民共和国史のなかでも暗い時期とされる。この過程で宗教勢力は大きく弱体化し、国家と党が社会統合の中心的役割を担う体制が形成された。

対外関係と冷戦構造

モンゴル人民共和国は、ソビエト連邦と中華世界との間に位置する緩衝国家として重要視された。第二次世界大戦末期の1945年には住民投票を通じて独立が確認され、中華民国政府もこれを承認した。冷戦期にはソビエト陣営に属し、経済援助・軍事同盟を通じて緊密な関係を維持したが、1960年代の中ソ対立以降は中国との関係が悪化し、国境地帯にはソビエト軍が長期駐留する状況となった。

社会・文化の変化

社会政策としては、識字率向上と医療制度整備が重視され、学校教育の普及によって読み書きのできる人口が急増した。1940年代には伝統的なモンゴル文字に代わってキリル文字表記が導入され、公文書や教育で使用されるようになった。また女性の社会参加も進み、労働力として工場や行政機関で働く女性が増加するなど、性別役割においても変化が生じた。

民主化とモンゴル国への移行

1980年代後半、ソビエト連邦のペレストロイカの影響を受けて、モンゴル人民共和国でも政治改革と民主化を求める運動が高まった。1990年には複数政党制が導入され、自由選挙が実施される。続く1992年に新憲法が制定され、国家名称は「モンゴル国」と改められ、社会主義的性格をもつ旧体制は終焉した。これによりモンゴル人民共和国という国名は歴史上のものとなり、市場経済と議会制民主主義を基調とする新たな国家体制へと移行したのである。