モロ戦争|米国支配に抗した南フィリピン紛争

モロ戦争

モロ戦争は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ合衆国がフィリピン南部のイスラーム教徒住民(モロ)を武力的に制圧しようとした一連の戦争・蜂起・掃討作戦の総称である。これは米西戦争後に始まったアメリカのフィリピン支配の中でも、とりわけ長期にわたる抵抗と激しい戦闘を特徴とし、ミンダナオ島やスールー諸島を舞台として展開した。スペイン支配期から独自の政治権力を保持してきたモロ社会は、アメリカの近代的な植民地統治に対して頑強に抵抗し、その過程で多数の住民が犠牲となった。

歴史的背景

モロ戦争の背景には、米西戦争(1898年)によるフィリピン割譲と、それに続くフィリピン=アメリカ戦争がある。ルソン島やビサヤ諸島を中心とするカトリック系住民の独立運動とは異なり、南部のモロ社会は、スペイン支配下でもスルタン制を基盤とする自律性を維持してきた。アメリカはフィリピン全土の安定支配を目指してモロ地域にも進出し、スルー王国のスルタンとの間に休戦条約を結びつつも、軍事基地の建設や行政制度の導入を進めた。この過程で、イスラーム法に基づく慣習や土地所有制度が脅かされ、モロ側の不信と反発が高まった。

戦争の展開

モロ戦争は、単一の宣戦布告や講和条約で区切られる戦争ではなく、複数の武力衝突が連続した形で進行した。アメリカ軍は「治安維持」や「盗賊鎮圧」を名目に、要塞化されたコタ(要塞集落)を包囲・攻撃し、島々を順次制圧していった。特に有名なのが、山頂の要塞に立てこもった住民を砲撃と突撃で殲滅した作戦であり、女性や子どもを含む多くのモロが犠牲となったとされる。これらの戦闘は、近代兵器を有するアメリカ軍と、剣や槍、旧式銃で戦うモロ戦士との圧倒的な装備差を特徴としつつも、モロ側の自己犠牲的な突撃や宗教的熱情が記録に残されている。

アメリカの統治政策と社会変容

モロ戦争の進行にともない、アメリカは「モロ州」と呼ばれる特別行政区を設置し、軍政と民政を組み合わせた統治を行った。道路・港湾・学校の建設など近代化政策が進められる一方、土地制度の再編や税制の導入は、在来の首長層や農民の利害を大きく変化させた。武力による制圧と統治の正当化には、「文明化」「近代化」といった帝国主義的言説が用いられ、その点でヨーロッパ列強の植民地政策とも共通する側面をもつ。このような支配のイデオロギーは、のちにニーチェの権力論やサルトルの植民地主義批判に照らして論じられることもある。

モロ社会の抵抗とイスラーム

モロ戦争における抵抗運動は、単なる反税・反兵役といった経済的不満にとどまらず、イスラーム共同体としての自律と信仰を守ろうとする運動でもあった。多くの戦士は、シャリーア(イスラーム法)や在来の慣習を侵す支配に対してジハード(聖戦)的性格を帯びた抵抗を行ったと理解されることが多い。アメリカ側はこれを「野蛮な暴力」として描き、統治の正当化に利用したが、モロ側から見れば、外来のキリスト教国による支配への防衛戦争であったともいえる。この点は、植民地主義と宗教の関係を考察する上で重要であり、思想史の観点からはニーチェサルトルの議論とも接続しうるテーマとなる。

戦争の終結とその後

モロ戦争は、表面的には20世紀初頭までに主要な武装抵抗が鎮圧されたことで終結したとされる。しかし、モロ社会の土地喪失や政治的周縁化、宗教・文化への抑圧は、その後も長く続き、フィリピン独立後もモロ民族運動や武装闘争として形を変えて継続した。アメリカの軍事行動と統治の経験は、フィリピン南部における治安問題や自治要求の歴史的背景として現在まで影響を与えている。また、近代戦における火砲・小火器・要塞戦術の結合は、軍事史や技術史の観点からも重要であり、武力と技術の関係を論じる際にはボルトのような科学・技術史に関する議論とも関連づけられる。

歴史的意義

モロ戦争は、アメリカ合衆国が本格的な海外植民地支配に踏み出した時期の事例として、帝国主義史・軍事史・宗教史の複数の視点から検討されている。フィリピン全体の独立運動史の中ではしばしば周縁化されがちだが、モロ社会の視点から見ると、近代国家とイスラーム共同体との対立・交渉の歴史として独自の意味を持つ。さらに、この戦争の経験はアメリカ軍の対ゲリラ戦・住民統治のノウハウ形成にも影響を及ぼし、後の他地域での軍事介入にも間接的に継承されたと指摘されることが多い。したがって、モロ戦争は、単なる地域紛争ではなく、20世紀以降の世界秩序と植民地主義、宗教と国家の関係を理解するうえで欠かせない歴史的素材となっている。