メッテルニヒ
メッテルニヒ(クレメンス・フォン・メッテルニヒ)は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序を主導したオーストリアの外交官・政治家である。とくにメッテルニヒは、ナポレオン失脚後に開かれたウィーン会議を主宰し、列強の勢力均衡と王政の復活を柱とする「ウィーン体制」を築き上げたことで知られる。その外交は、フランス革命とナポレオン戦争によって広まった自由主義やナショナリズムを抑え込み、ヨーロッパの旧体制を守ろうとする保守的なものであり、19世紀前半の国際政治を象徴する存在となった。
生い立ちと青年期
メッテルニヒは1773年にドイツ西部ライン地方の貴族家に生まれた。父親は神聖ローマ帝国およびオーストリアに仕える外交官であり、若きメッテルニヒもその影響を受けて外交の道に進んだ。彼は大学で法学や政治学を学び、当時ヨーロッパを揺るがしていたフランス革命の動向を間近に体験した。青年期のメッテルニヒは、革命による急激な変化が貴族社会と君主制を脅かすものとして意識され、のちの強い反革命姿勢の土台となった。
オーストリア外交官としての台頭
外交官としての才能を認められたメッテルニヒは、各地の大使を歴任しながら、対フランス政策の最前線に立った。とくにナポレオンの台頭後、オーストリアは度重なる敗北を経験し、ナポレオン帝国への対処が最大の課題となった。1809年に外相となったメッテルニヒは、一時的にはフランスと妥協し、皇女マリー・ルイーゼとナポレオンの結婚を仲介するなど現実的な路線をとったが、その内心にはナポレオン打倒の意図があった。やがて1813年のライプツィヒの戦いで対仏大同盟側に加わり、ナポレオン包囲の中心的外交役となった。
- メッテルニヒは、オーストリアの利益を守るため、戦争と講和のタイミングを巧みに調整した。
- ナポレオンとの同盟と対立を使い分け、最終的にオーストリアを勝者側に位置づけることに成功した。
- この過程で、のちのヨーロッパ秩序の基礎となる勢力均衡の発想を具体化した。
ウィーン会議とウィーン体制の構築
1814〜1815年のウィーン会議は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序を再建する会議であり、議長役を務めたメッテルニヒの舞台となった。ここでメッテルニヒは、革命と戦争によって崩れた旧領土秩序を修復し、王家の支配(正統主義)を回復させることを目指した。同時に、いずれか一国が他国を圧倒しないよう、列強間の勢力均衡を図ったことが特徴である。ナポレオンの最終的な敗北を決定づけたワーテルローの戦い後も、彼は会議の調整役として活躍し、その成果は19世紀前半の欧米国民国家形成以前の安定期をもたらしたと評価される。
保守主義と革命・ナショナリズムの抑圧
メッテルニヒは、急進的な自由主義やナショナリズムをヨーロッパ秩序を乱す危険な思想とみなし、徹底した抑圧政策を推進した。彼の政治思想は、王権・身分制・伝統的秩序を重んじる保守主義の典型であり、革命を未然に防ぐことを最重要視していた。その象徴が、1819年にドイツ連邦で実施されたカールスバード決議であり、大学・出版・結社に対する厳しい検閲と監視を行うことで、学生運動や自由主義者の活動を抑え込んだ。
ドイツ連邦政策と検閲体制
ドイツ諸邦を統合したドイツ連邦において、メッテルニヒはオーストリアの主導権を維持するため、諸邦の自由主義的改革を警戒した。彼は連邦議会を通じて検閲と警察的取締りを拡大し、言論空間を厳しく統制した。この体制は、自由主義や民族統一を求める運動を一時的には封じ込めたが、抑圧された世論は地下に潜行し、後の1848年革命で一気に噴出することになる。
1848年革命と失脚・晩年
1848年、フランス二月革命をきっかけにヨーロッパ各地で革命が波及すると、長年抑圧政策を続けてきたメッテルニヒは民衆の憤激の標的となった。ウィーンでも大規模なデモと蜂起が起こり、皇帝宮廷は動揺した結果、メッテルニヒは辞職・亡命を余儀なくされた。彼はイギリスや他地域で亡命生活を送り、オーストリア政治の第一線に戻ることはなかった。その後、1848年革命の波は一時的に鎮圧されたものの、メッテルニヒが恐れたナショナリズムや立憲運動は後退せず、やがてドイツ・イタリアなどの統一へとつながっていく。
歴史的評価と意義
メッテルニヒは、19世紀前半のヨーロッパ秩序を維持した「平和の調停者」とも、自由と民族自決を抑え込んだ「反動政治家」とも評価される。たしかに彼の築いたウィーン体制は、列強の協調によって大国間戦争を数十年にわたり防ぎ、相対的な安定をもたらした点で重要である。しかし同時に、フランス革命以来広まった自由と平等の理念、そして国民国家を求める動きを力で押さえつけたことにより、社会の矛盾を先送りしたともいえる。こうした矛盾の蓄積が、のちの欧米国民国家の形成や、19世紀後半の新たな国際緊張へとつながっていく点で、メッテルニヒは「旧体制の最後の守護者」として歴史に刻まれている。