ムガル帝国の滅亡|衰退と英領インド支配

ムガル帝国の滅亡

ムガル帝国滅亡の概要

ムガル帝国は16世紀以降、北インドを中心に繁栄したイスラーム王朝であったが、18世紀から19世紀にかけて徐々に実質的支配力を失い、最終的にムガル帝国の滅亡へと至った。その過程では、内部の政争や地方勢力の台頭に加え、イギリスや周辺イスラーム勢力の侵入が重なり、帝国の政治・軍事・財政基盤が崩壊していった。滅亡は1857年のインド大反乱とその後の王朝廃止というかたちで歴史上に刻まれ、近代インドにおける植民地支配と民族運動の出発点とみなされる。

アウラングゼーブ死後の衰退

帝国の転機は、最盛期を築いた第6代皇帝アウラングゼーブの死(1707年)に求められる。長期にわたる南方遠征と宗教政策は、軍事費増大と諸勢力の不満を招き、宮廷内では後継者争いが頻発した。皇帝が短期間で交代するなかで、中央官僚制は機能不全に陥り、地方総督や軍閥が実質的な支配権を握るようになった。

地方勢力の台頭と帝国の分裂

18世紀には、各地で地方勢力が自立し、名目上は皇帝に忠誠を誓いつつも、実際には独自の課税や軍事行動を行った。とくに西インドのマラーター王国は急速に勢力を拡大し、北インドにも進出してムガルの旧領を侵食した。さらにアワドやベンガルなどの太守も独立性を強め、帝国は形式的な宗主権のみを保つ「名ばかりの帝国」へと変質していった。

  • マラーター勢力の進出により、北インドの歳入地が喪失した。
  • 地方太守・ザミンダールの自立が中央への送金を減少させた。
  • 軍事力が分散し、都の防衛すら十分に行えなくなった。

外国勢力の侵入とデリーの荒廃

帝国の弱体化は、周辺諸勢力の侵入を招いた。1739年、イランの支配者ナーディル・シャーが北インドへ侵攻し、首都デリーを占領して略奪を行ったことは象徴的な事件である。この襲撃によって宮廷財宝や兵器は失われ、多くの住民が犠牲となり、皇帝の権威は大きく失墜した。その後もアフガン勢力の干渉が続き、帝国は自らの領域を防衛する力さえ持てなくなった。

東インド会社の台頭と皇帝権力の空洞化

18世紀半ばには、東インド会社を通じてイギリス勢力が台頭し、ベンガル支配などを通じて莫大な歳入を獲得した。プラッシーの戦いやブクサールの戦いを経て、会社は北インドの財政と軍事を掌握し、皇帝は彼らから年金を受け取る名目的存在へと転落した。19世紀初頭には、イギリス軍がデリーを制圧し、皇帝は都の一角で儀礼的な存在としてのみ存続する状態となった。

インド大反乱と王朝の終焉

1857年に勃発したインド大反乱では、シパーヒーと呼ばれるインド人兵士たちが反乱軍の求心力としてデリーの皇帝を担ぎ出し、伝統的主権の象徴として再びムガル皇帝が前面に押し出された。しかし、イギリス本国から派遣された軍隊が反乱を鎮圧すると、最後の皇帝バハードゥル2世は退位させられ、ビルマへの流刑に処された。1858年、ムガル王朝は正式に廃絶され、インドはイギリス王権による直接統治へと移行した。

ムガル帝国滅亡の歴史的意義

こうしてムガル王朝の終焉は、中世以来続いたイスラーム王朝支配から、近代的な植民地帝国による直接支配への転換点となった。壮麗な宮廷文化やイスラームとヒンドゥー文化の融合を象徴する建築・文学は、政治的実体を失ったのちもインド社会に深い影響を残した。近代の民族運動においても、失われた王朝の記憶は「かつての統一権力」の象徴として語られ、植民地支配に対抗する歴史的想像力の重要な資源となっていった。