ミハイル=ロマノフ
ミハイル=ロマノフは、ロマノフ朝最初のツァーリであり、動乱時代後のロシア国家を再建した君主である。ミハイル=ロマノフはロシア正教の名門ロマノフ家に生まれ、イヴァン4世(雷帝)の妃アナスタシアの縁戚として、リューリク朝との血縁的なつながりを持っていた。動乱で荒廃した国家を立て直し、対外戦争の終結や財政の整備を通じて、のちの専制国家ロシア帝国の基盤を築いた人物として位置づけられる。
出自とロマノフ家の位置づけ
ミハイル=ロマノフは1596年、ロシア貴族ロマノフ家に生まれた。ロマノフ家は、イヴァン4世の最初の皇妃アナスタシアの実家であり、この婚姻関係を通じてツァーリ家と結びついた名門であった。のちにロシアを支配するロマノフ朝は、この一族から始まり、ツァーリズムの枠内で専制的支配と貴族支配を組み合わせた統治を展開していくことになる。
動乱時代とツァーリへの選出
16世紀末から17世紀初頭のロシアは、ボリス=ゴドゥノフ政権の崩壊、偽ドミトリーの登場、ポーランド軍の介入などが重なり、「動乱時代」と呼ばれる政治的混乱に陥った。リューリク朝が断絶した結果、ツァーリ位は空位となり、諸勢力が権力を争った。こうした状況の下で国民代表会議ゼムスキー・ソボルが招集され、1613年、まだ若年であったミハイル=ロマノフが妥協的候補としてツァーリに選出された。この選出は、貴族や聖職者、都市住民など多様な層の合意に基づくものであり、新王朝の正統性を支える根拠となった。
父フィラレートとの共同統治
ミハイル=ロマノフの父フョードル・ロマノフ(のちの総主教フィラレート)は、動乱時代にポーランド側へ連行されて幽閉されていたが、1619年に解放されてモスクワへ戻った。彼は総主教となると同時に、事実上の共同統治者として政治の中心に立ち、外交や財政、軍事に大きな影響力を及ぼした。若いツァーリであったミハイル=ロマノフの治世前半は、フィラレートによる摂政的支配の色彩が濃く、国家再建策の多くも彼の主導で進められた。
内政と農民支配の強化
ミハイル=ロマノフの時代、ロシア政府は戦乱で荒廃した農村と財政の立て直しに取り組んだ。ツァーリ政権は軍役義務を負う貴族層への土地給与を維持・拡大し、その負担を支えるために農民の移動を厳しく制限した。こうした政策は、のちの法典整備を通じて農民の身分拘束を強める方向へつながり、ロシアの農奴制の基礎を固める結果となった。国家の安定と軍事力維持のための政策であったが、農民にとっては自由の一層の制限を意味した。
対外政策とシベリア・南東方面への拡大
ミハイル=ロマノフの治世では、スウェーデンやポーランド=リトアニアとの戦争を停戦・講和へと導く外交が進められた。完全な領土回復には至らなかったものの、北西・西方国境の安定は、内政再建に注力する条件を整えることにつながった。一方で東方では、コサックや開拓民の活動を背景にシベリアへの進出が継続され、イェルマークの開拓以来の流れが強化された。この動きは、のちのロシア帝国によるユーラシア内陸支配の前段階として重要であり、イェルマークの遠征やカザン=ハン国・アストラハン=ハン国征服後の展開とも結びついて理解される。
後継者と歴史的評価
ミハイル=ロマノフは1645年に死去し、その後は息子のアレクセイがツァーリとして即位した。彼の治世は華々しい領土拡張の時代ではなかったが、動乱で崩壊しかけた国家機構を立て直し、貴族層との協調を通じて新王朝ロマノフ朝の基礎を固めた点で高く評価される。ツァーリ権力の再建、貴族・聖職者との連携、農民支配の強化、そして対外的安定化という諸要素は、その後のロシアが専制国家として発展し、ピョートル1世以降の改革へと進んでいくための前提条件となった。