ミドハト憲法
ミドハト憲法は、1876年にオスマン帝国で制定された最初の成文憲法であり、その名称は憲法案の起草を主導した宰相ミドハト・パシャに由来する。即位直後のアブデュルハミト2世の名で公布され、専制的なスルタン権力を一定程度制約しつつ、帝国の統一と近代国家化を目指した点に特質がある。この憲法は、イスラーム世界における立憲主義の嚆矢として位置づけられ、のちの青年トルコ運動やトルコ共和国の政治制度にまで影響を及ぼした。
制定の背景
19世紀のオスマン帝国は、ヨーロッパ列強との軍事力・財政力の格差が拡大し、「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど衰退が意識されていた。こうしたなかで帝国は、軍制・財政・行政を近代化するため、早くから改革を積み重ねていた。すでにセリム3世期には新式軍隊ニザーム=ジェディットが創設され、続くマフムト2世はイエニチェリ軍団の解体と官僚制の整備を進めていた。
19世紀中葉には、アブデュルメジト1世のもとでタンジマートと呼ばれる本格的な近代化改革が展開された。1839年のギュルハネ勅令および1856年の恩恵改革は、臣民の生命・財産の保障や法の下の平等を掲げ、キリスト教徒を含む諸宗教共同体に対する差別の緩和を打ち出した。しかし、これらは依然としてスルタン権力の枠内での勅令改革であり、議会や憲法による統制には至らなかった。
一方で、帝国内部では近代教育を受けた官僚や知識人の層が成長し、専制政治を批判して立憲政治を要求する声が高まった。いわゆる「新オスマン人」たちは、イスラームの教えとヨーロッパ的立憲主義は両立しうると主張し、帝国の統合を保ちながら改革を進める道として憲法制定を構想した。このような議論と、バルカン問題や列強による干渉の激化が重なり、最終的にミドハト憲法の制定へとつながった。
憲法の内容と制度的特徴
ミドハト憲法の正式名称はオスマン語で「カーヌーン・イ・エサーシー」であり、イスラームを国教とするスルタン国家でありながら、近代的な立憲制度と基本的人権に関する条項を盛り込んでいた。その根本的な性格は、スルタンの主権を維持しつつ、一定の範囲で議会と臣民の権利を認める折衷的な立憲君主制である。
- 国家体制としてスルタンを国家元首と位置づけ、軍隊統帥権や外交権など広範な権限を保持させた。
- 帝国の宗教はイスラームと規定しつつ、ムスリムと非ムスリムを問わず臣民の法的平等と私有財産の不可侵を明記した。
- 立法機関として二院制議会を設置し、上院にあたるアーヤン院はスルタン任命、下院にあたるメブーサン院は各地方からの選出議員によって構成された。
- 出版・言論の自由など近代的権利を掲げたが、多くは「法律の範囲内で」と限定され、政府による制約の余地が大きかった。
- スルタンに議会解散権や戒厳令布告権が与えられ、非常時には専制的統治に戻りうる仕組みも組み込まれていた。
施行と第一次立憲制の挫折
ミドハト憲法は1876年に公布され、翌1877年には初の議会が招集されて第一次立憲制時代が始まった。議会では、財政危機やバルカン問題をめぐって政府批判も行われ、一定の政治的討議空間が生まれた。しかし、同じ時期に露土戦争が勃発し、帝国は戦局の悪化と領土喪失の危機に直面した。
アブデュルハミト2世は戦争と国内不安を口実として、1878年に議会を解散し、憲法の一部条項の停止を宣言した。こうして第一次立憲制はわずか数年で終焉し、その後の長期にわたる「ハミディエ体制」のもとで専制的統治が復活した。ただし、憲法そのものは完全に廃止されたわけではなく、条文は形式的には存続し続けた。
青年トルコ革命と歴史的意義
20世紀初頭、帝国内の将校や官僚・知識人から成る青年トルコ人たちは、専制体制の打破とミドハト憲法の復活を掲げて活動し、1908年の青年トルコ革命によって再び議会制が実現した。これにより憲法は復活し、スルタン権限を縮小する方向で条文改正も進められた。立憲体制は第一次世界大戦や帝国崩壊という激動の中でも、政治改革の正統な枠組みとして意識され続けた。
ミドハト憲法は、イスラームを基盤とする王朝国家が、ヨーロッパ型の憲法や議会制度を取り入れようとした試みとして重要である。その背後には、オスマン帝国の改革やタンジマート、ギュルハネ勅令、恩恵改革といった一連の近代化政策があり、さらにアブデュルメジト1世やマフムト2世、セリム3世らの改革経験が蓄積されていた。これらの改革を総合し、立憲主義という形で結実させた点において、この憲法はオスマン帝国および中東近代史の転換点と評価される。