マリーン朝|モロッコの学芸と都市を支えた王朝

マリーン朝

マリーン朝は13〜15世紀にかけてモロッコを支配したベルベル系王朝である。出自はズナータ部族の一派で、ムワッヒド朝の衰退に乗じて台頭し、フェズを中核として西方イスラーム世界の政治・学術・交易の結節点を再編した。とりわけ1276年のフェズ・ジャディード建設や、マドラサ網の整備は都市空間と宗教学術の基盤を固め、西地中海とサハラ縦断交易を結びつける国家経済の骨格を与えた。一方でアル=アンダルス支援やリコンキスタへの軍事介入は長期的負担となり、宮廷内抗争と疫病流行、地方勢力の離反を背景に衰退し、やがてワッタース朝へ権力が移行した。

成立と背景

マリーン朝の祖先はモロッコ東部から進出したズナータ系ベルベル人である。13世紀前半、ムワッヒド朝の支配構造が動揺すると、遊牧的機動力をもつ部族連合は地方拠点を掌握し、1248年にはフェズを獲得して王朝化への道を開いた。初期のスルタンは部族首長層の合意を糾合しつつ、旧体制の行政経験者を取り込み、都市財政と軍事動員を両輪とする支配を整えた。

政治構造と統治

マリーン朝の統治は、部族連合の合議を基礎にしつつ、スルタン権力の下で官僚制を拡充する折衷型であった。宮廷と軍の中枢には近侍集団と宰相が配置され、歳入の柱は都市課税・関税・交易保護料である。フェズ・ジャディードの王宮区は王権の象徴空間として整備され、宗教的正統性はマーリキ法学の擁護とマドラサ振興によって補強された。こうして緩やかな部族的紐帯を官治へ接続する「都市国家的マフザン」の実体が形成された。

軍事と対外関係

マリーン朝は海峡を越えてナスル朝グラナダを支援し、イベリア半島の勢力均衡に介入した。しかし1340年のサラード川の戦いでカスティーリャとポルトガルの連合軍に敗れ、以後は攻勢能力が後退した。セウタなど要衝の掌握は通商と防衛に資したが、海上勢力の伸長と半島側の反攻により圧迫は増した。対マグリブ内では内陸部の部族自立化に悩まされ、辺境統制は断続的であった。

都市政策と学術の振興

マリーン朝の都市政策はフェズの再編に集約される。新設のフェズ・ジャディードは王宮・兵営・スークを備え、旧市街と補完関係を成した。宗教・学術面ではアッタリーンやブー・イナーニーヤなどのマドラサが建設され、法学・ハディース・文法学が講じられた。ワクフ(寄進財産)の設定は教育と慈善の制度的基盤を与え、都市共同体の結束を強める役割を果たした。

交易と経済

  • サハラ縦断交易の結節点を押さえ、シジルマサ方面から金・岩塩・奴隷がもたらされ、北では地中海商人(ジェノヴァ、アラゴン)との通商で銀貨・織物・工芸品が流入した。
  • キャラバン保護と関税徴収は国家財政の根幹となり、市壁・宿駅・市場規制が整備された。
  • 都市手工業では皮革・染色・金属加工が発展し、灌漑耕作と果樹栽培が周辺農村を支えた。

文化と社会

マリーン朝期の学知は神学・法学に偏重しつつも、史学・地理学・文芸も涵養された。王侯貴族はスークの工房と学寮を保護し、都市のウラマーと組合が社会的規範と紛争調停を担った。金曜モスクの建設やミナレット修築は宗教空間の可視化を通じて権威を示し、宗教的正統と都市公共性が結びついた。

衰退と継承

マリーン朝は1348年の黒死病で人的資源を失い、宮廷内の後継争いと地方の離反が続発した。強力なスルタン不在の下で宰相家系が影響力を増し、15世紀半ばのフェズ動乱を経て権力はワッタース家へ移行した。1472年にはワッタース朝が名実ともに支配者となり、北西アフリカの覇権は再編されることになった。

年表(主要出来事)

  • 1248年 フェズ掌握、王朝化の端緒
  • 1276年 フェズ・ジャディード建設
  • 1340年 サラード川の戦いで敗北
  • 1348年 黒死病流行
  • 14世紀後半 宮廷抗争と地方離反が進行
  • 1415年 セウタ陥落により海峡支配が動揺
  • 1472年 ワッタース朝へ実権移行