マラーター戦争
マラーター戦争は、インド西部を支配していたマラーター同盟と、インド支配を拡大するイギリス東インド会社とのあいだで、18世紀後半から19世紀初頭にかけて3度にわたり行われた戦争である。これらの戦争は、デカン高原から北インドにかけての勢力均衡を大きく変え、最終的にマラーター勢力を従属させることで、イギリスのインド支配確立に決定的な役割を果たした。同時期に行われたマイソール戦争などとともに、イギリスの軍事的優位と外交戦略が本格的に展開された局面と位置づけられる。
背景:マラーター勢力の台頭とインド政治秩序の変化
マラーター戦争の背景には、ムガル帝国の衰退と、それに乗じたマラーター勢力の台頭がある。17世紀後半に台頭したマラーターは、デカン高原を基盤とする戦士集団であり、プネーの宰相ペーシュワが同盟諸侯をまとめる「マラーター同盟」を形成した。ムガル帝国の中央支配が弱まると、マラーターは北インドやベンガル地方にまで進出し、諸地方勢力との抗争を繰り返した。この混乱のなかで、ベンガルではイギリス東インド会社がベンガル太守や地方勢力との戦いに勝利し、ディーワーニー(徴税権)を獲得して勢力を拡大していった。
第1次マラーター戦争(1775年〜1782年)
第1次マラーター戦争は、マラーター内部の後継争いにイギリスが介入したことから始まった。ペーシュワ位をめぐってラグナート・ラーオが対抗勢力と争い、ボンベイ管区のイギリスと条約を結んで軍事支援を求めたのである。イギリスはマラーター領の一部割譲と通商上の特権を見返りに介入し、デカン西部で戦闘が続いた。しかし、マラーター側は結束を強め、フランス人軍事顧問の助力も得て抵抗したため、イギリスは決定的勝利を得られなかった。最終的に1782年のサルバイ条約で戦争は終結し、イギリスはラグナート・ラーオ支持を放棄し、マラーター側も一部の譲歩を行うにとどまった。この段階では、まだマラーターはデカンの有力勢力として存続していた。
第2次マラーター戦争(1803年〜1805年)
第2次マラーター戦争は、マラーター諸侯間の対立にイギリスがより積極的に介入した戦争である。1802年、ペーシュワのバージー・ラーオ2世がホールカル家との内乱に敗れ、再び地位回復のためイギリスと保護条約(バセイン条約)を結んだ。これに反発したシンディア家やボーンスレー家などのマラーター諸侯がイギリスに対して武装蜂起し、中央インドから北インドにかけて広範な戦闘が展開された。アーサー・ウェルズリーらの指揮するイギリス軍は近代的な編成と火力を活かして諸侯軍を撃破し、デリー周辺やドアーブ地帯など戦略的地域を掌握した。この結果、マラーター諸侯は広大な領土を割譲し、イギリスの保護と指導を受ける従属的な同盟国へと位置づけられた。
第3次マラーター戦争(1817年〜1818年)
第3次マラーター戦争は、すでに力を削がれていたマラーター勢力が最後の抵抗を試みた戦争である。ペーシュワのバージー・ラーオ2世は、イギリスの内政干渉と領土縮小に不満をつのらせ、1817年にイギリス駐在軍への攻撃を指示して蜂起した。しかし、この反乱はイギリスの機動力と情報網を前に短期間で鎮圧され、1818年までにマラーター連合は軍事的に完全に敗北した。ペーシュワ位は廃止され、旧領の大部分はイギリスの直轄領とされ、一部が藩王国として再編成されたことで、マラーターはインド政治の主役から退場することになった。
インド支配拡大の中での位置づけ
- マラーター戦争の連続した敗北により、イギリスはデカンから北インドに至る広大な内陸部を掌握し、インドにおける「覇権国家」としての地位を確立した。これは、ベンガルにおけるブクサールの戦いと徴税権の獲得に続く、支配拡大の第二段階と位置づけられる。
- 同時期に南インドで展開されたマイソール戦争では、ティプー=スルタンがイギリスに抵抗したが、最終的に敗北してマイソール王国は弱体化した。これとマラーター戦争の結果、デカンと南インドの主要な在地勢力はほぼすべてイギリスの庇護下に置かれた。
- ベンガルでは、ベンガル太守やベンガル知事のもとでの統治構造が、イギリス東インド会社とベンガル総督体制へと組み替えられ、徴税と行政が一体化した植民地支配が進んでいた。こうした制度的変化が、内陸部へ進出した後の統治にも応用された。
- 戦後、イギリスはマラーター諸地域で軍事拠点と道路網を整備し、インド内陸部からの農産物やインド産綿布などの流通を、自国に有利なかたちで再編した。これにより、在地勢力が担っていた経済ネットワークは次第に解体され、ロンドンを中心とする大西洋経済との結合が強まっていった。
以上のように、マラーター戦争は、単なる地域的な抗争ではなく、マラーター同盟という在地勢力がイギリス東インド会社の軍事力・外交力に屈していく過程を示す戦争であった。その帰結として、インド西部から北部にかけての政治地図は大きく描き換えられ、イギリスがインド亜大陸全体の覇権を握るための決定的な一歩となったのである。
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