マフムト2世|オスマン近代化の推進者

マフムト2世

概要と時代背景

マフムト2世は、19世紀前半のオスマン帝国を統治したスルタンであり、伝統的なイスラーム帝国を近代国家へと転換させようとした君主である。即位期間は1808年から1839年で、ギリシア独立戦争やロシアとの戦争、エジプト総督ムハンマド=アリーの台頭など、帝国の存立が揺らぐ危機の中で、軍制・行政・社会制度の改革を進めた。とくに親衛軍イェニチェリの廃止と、それに続く常備軍の創設は、後のタンジマート改革の前提を形づくった重要な転換点と評価される。

即位の経緯と内政の課題

マフムト2世の即位は、前スルタンで従兄にあたるセリム3世の改革とその挫折の延長線上に位置づけられる。セリムは西欧式の新軍編成であるニザーム=ジェディットを推進したが、保守的なイェニチェリや地方有力者アーヤーンの反発を招き失脚した。こうした混乱の中で、王朝内最後の男子として辛うじて生き残ったのがマフムト2世であり、彼は即位直後から、王朝の権威回復と中央集権化という重い課題を背負うことになった。

軍制改革とイェニチェリ廃止

マフムト2世の治世で最もよく知られる出来事が、1826年のイェニチェリ廃止である。長らくスルタンの親衛軍として名高かったイェニチェリは、近世末には規律を失い、改革に反対する保守勢力の拠点となっていた。皇帝は新式軍隊創設の動きをあえて示し、これに反発して蜂起したイェニチェリを「反乱」とみなして砲撃・解体した。この事件は「幸運なる事件」とも呼ばれ、新たに西欧式の常備軍が創設される契機となった。軍事面での近代化は、のちのオスマン帝国の改革全体を牽引する象徴的な出来事であった。

行政・社会改革と中央集権化

マフムト2世は軍制だけでなく、行政・財政・社会制度にも改革を及ぼした。地方支配では、半独立的なアーヤーンの権限を削減し、中央から官僚を派遣して税収と治安を直接管理する体制を整えた。また省庁制を導入し、官僚の階層化や訓練制度を整えることで、近代的な官僚制国家への転換を進めた。衣服改革として、官僚や軍人にフェズと洋式軍服の着用を命じたことは、社会の外見的な西欧化を象徴する政策であり、帝国のイメージ刷新を意図したものであった。

対外戦争と領土問題

一方で、マフムト2世の治世は領土縮小の時期でもあった。ギリシア独立戦争では、列強の干渉によりギリシア独立を承認せざるをえず、バルカン支配の動揺が始まる。ロシアとの戦争では黒海沿岸やバルカンにおける影響力を弱め、条約によってロシアの宗教保護権を認めるなど、外交上の譲歩を重ねた。また、エジプト総督ムハンマド=アリーの軍事的台頭は、アナトリアにまで及び、帝国の統一を揺るがした。このエジプト問題は、のちのエジプト(19世紀)の政治発展や、さらに後代のウラービー運動、エジプトの保護国化へとつながる長期的な要因ともなる。

タンジマートへの橋渡しと歴史的評価

マフムト2世の改革は、彼の死後まもなく公布されるタンジマート(恩恵勅書)ほど体系的ではなかったが、その前提条件を整えた点で重要である。中央官僚制の整備、軍制の西欧化、地方勢力の抑圧、財政基盤の回復などは、帝国を「法と行政」によって再編成しようとする19世紀後半の動きを先取りしていた。結果として帝国の解体を止めることはできなかったものの、伝統的なイスラーム君主制と近代国家のモデルを折衷しようとした点に、彼の治世の特色がある。オスマン帝国の近代史を理解するうえで、セリム3世の改革からマフムト2世、そして後続のタンジマートへと続く連続性を把握することが重要であり、その意味で彼は「旧体制最後のスルタン」であると同時に、「近代オスマンへの扉を開いた君主」と位置づけられている。