マグナ=カルタ
マグナ=カルタ(大憲章)は、1215年にイングランド王ジョンがラニーミードで諸侯に認証した憲章である。王権を慣習と法に拘束し、課税や裁判に関する手続的保障を文章化した点に画期性がある。のちの「法の支配」や議会主権の観念、近代的権利章典の先駆として評価され、ヘンリ3世・エドワード1世による再発布と法典化を通じて長期的な規範力を獲得した。英仏抗争や教会との対立、財政圧迫という具体的危機に対する政治的妥協でありつつ、王と共同体の合意を基礎とする統治の原理を示した点に意義がある。
成立の背景
背景には、プランタジネット朝の拡大と収縮がある。ヘンリ2世の下で形成されたアンジュー帝国は広大であったが、ジョンの治世にフランス王フィリップ2世に敗れて大陸領の多くを喪失し、王権は財政再建のためスキutage(免役金)や臨時課税を頻発した。さらに、カンタベリー大司教座をめぐる任命紛争で教皇インノケンティウス3世と衝突し、全国 interdiction に伴う権威失墜も重なった。こうした状況のもと、貴族・聖職者・都市層が王の恣意的支配に制限を求め、政治的妥協の文書化としてマグナ=カルタが構想された。
起草と認証
1215年6月、テムズ川沿いのラニーミードにおいて、反乱諸侯を代表する25人のバロン団と王ジョンが対面し、調停役としてカンタベリー大司教スティーヴン・ラングトンが関与した。合意は「われらとわれらの後継は、王国の自由を保持する」と宣言し、慣習法(law of the land)の遵守を王に誓約させた。原憲章は短期間で破棄・内戦化したが、翌1216年にヘンリ3世名で修正再発布され、1217年に「森林章典」と分離、1225年に再び簡潔化されて恒久憲章となった。
主要条項(要点)
- 課税の合意原則:12条はスキutageやaidの賦課に「共同の評議(common counsel)」を要求した。
- 適正手続:39条は「同輩の合法的裁断または国法によらずして自由人を拘束せず」と規定し、40条は「正義の販売・遅延・拒否の禁止」を掲げた。
- 地方慣習の尊重:郡・都市・商業特権の維持、秤量・貨幣の公正化などを定めた。
- 王権の拘束:家産管理・未成年後見・未亡人保護など封建実務における恣意の抑制を明文化した。
- (1215年版)安全条項:61条は25人のバロンに違反是正権限を付与したが、後の版では削除された。
法思想への影響
マグナ=カルタは、王をも法の下に置くという「法の支配(rule of law)」の古典的根拠となった。とりわけ39・40条は人身の自由と裁判の公正の理念を象徴し、ハビアス・コーパスやデュー・プロセスの発想につながる。王権と共同体の合意という構図は、のちの議会の増大と結びつき、財政=代表原理を制度化する契機となった。
イングランド政治への定着
1225年版はヘンリ3世の自発的恩恵の形式で再確認され、1297年にエドワード1世が法典として承認して以降、議会や裁判所でしばしば援用された。紛争のたびに再確認が求められ、憲章は道徳的権威を蓄積した。こうした展開はプランタジネット朝の統治構造の変容を映し、王権の専断抑制と慣習の尊重という均衡が、のちの「国王陛下の政府」に受け継がれた。
教会との関係
マグナ=カルタの冒頭は教会の自由を最初に掲げ、叙任問題後の関係再構築を示した。ジョンとトマス=ベケットの時代から続く王権と教会の緊張は、ラングトンの調停を通じて「自由の保障」という普遍的原則へと昇華した点で注目される。
国際的受容と伝統
近世・近代には、権利請願や権利章典、さらにアメリカ独立期の政治文書にも参照され、「古来の自由」の象徴となった。17世紀のコモンロー法曹家はマグナ=カルタを古代的権利の宣明と解釈し、王権神授説への対抗理論を補強した。英仏関係や大陸法との対比の文脈でも語られ、イギリスとフランスの制度史比較において基準点となる。
人物と系譜
中心人物は王ジョンであり、その父ヘンリ2世の行財政改革や法廷整備が前提を与えた。宮廷・法廷・地方慣習の交点における折衝は、のちの「王冠と共同体」の関係性を規定し、封建契約的秩序から合意に基づく公的秩序へと軸足を移した。
テキストの伝来と史料
現存写本は大聖堂や修道院に分散し、写字生の手で複製されてきた。1215年原本の「大聖堂写本」は儀礼用の大判羊皮紙で、王璽と日付を備える。条文は再発布のたびに整理され、1217年の分離以降、「森林章典」は独立文書として扱われた。学術的には写本系統の比較、法曹文献での引用実態、王令・憲章との相互参照などが重視される。
歴史的評価と限界
マグナ=カルタは普遍的権利宣言ではなく、当初は自由人(freemen)に主に及ぶ封建社会の合意であった。農奴や在留異邦人まで含めた包括的権利保障は、近世以降の解釈と制度発展の成果である。それでもなお、課税の合意原則と適正手続の明文化は、王権と社会との関係を構造的に変え、長期にわたり「法の下の統治」を支える規範的象徴として機能し続けた。