ボーア戦争
ボーア戦争は、南アフリカにおけるオランダ系移民(ボーア人)の共和国とイギリス帝国とのあいだで起こった戦争である。一般にボーア戦争と呼ぶ場合、特に、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国がイギリスと戦った第2次南アフリカ戦争(1899年〜1902年)を指すことが多い。この戦争は、金鉱・ダイヤモンド鉱山をめぐる利権、アフリカ南部の覇権をめぐるイギリスの帝国主義政策、ボーア人の自治要求などが複雑に絡み合って勃発した。近代的な小銃や要塞戦、ゲリラ戦、さらには民間人を収容する強制収容所の設置など、後の世界大戦を先取りする要素を多く含み、同時代の国際世論にも強い衝撃を与えた戦争である。
歴史的背景
ボーア戦争の背景には、アフリカ南部における白人移民社会とイギリス帝国の支配拡大の歴史がある。ボーア人は、ケープ植民地におけるオランダ系農民の子孫であり、宗教的・民族的な独自性と自治を重んじ、内陸へ移住してトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建設した。ところが、内陸で金鉱やダイヤモンド鉱が発見されると、イギリスは経済的利権と戦略上の観点からアフリカ南部一帯を支配下に置こうとし、ボーア人の共和国と対立を深めていった。この対立は、アフリカ分割が進んだ植民地(帝国主義時代)の文脈の中で理解されるべきであり、イギリス政府やジョゼフ=チェンバレンら帝国主義政治家の構想とも結びついていた。
戦争勃発の要因
ボーア戦争は単発的な事件ではなく、複数の要因が蓄積して起こった紛争である。主な要因は以下の通りである。
- トランスヴァールにおける金鉱開発をめぐるイギリス資本の利権拡大
- ボーア人共和国に住む英語系移民(ユートランダー)の選挙権問題
- アフリカ南部を一体化させようとするイギリスの戦略と、ボーア人の自治維持の要求
- ケープ植民地やイギリス植民地会議などを通じた帝国防衛構想の強化
こうした政治的・経済的緊張が高まる中で、1899年に交渉が決裂し、ついにボーア戦争が勃発したのである。
戦争の経過
開戦とボーア側の優勢
1899年にボーア戦争が始まると、当初はボーア側が主導権を握った。ボーア軍は機動力のある騎馬部隊を活かし、ラディスミスやマフェキングなどの英国拠点を包囲し、トランスヴァール周辺でイギリス軍に打撃を与えた。ボーア兵は地形に精通しており、狙撃に適した高地や塹壕を利用して戦い、イギリス軍は近代的な火器による防御戦に苦しんだ。この時期、ロンドンでは帝国の威信が揺らぎ、新聞は敗報を大きく報じ、戦争への関心は一気に高まった。
イギリス軍の反攻とゲリラ戦
しかし、やがて本国およびカナダ連邦やオーストラリア連邦、ニュージーランドといったドミニオンから大規模な増援部隊が派遣されると、戦局はイギリス側に傾いた。1900年にはボーア側の主要都市が陥落し、ボーア共和国は形式上降伏に追い込まれる。しかし、その後もボーア人はゲリラ戦を継続し、鉄道や補給線を襲撃することでイギリス軍を消耗させた。これに対し、イギリスは焼き払いや農場破壊などの焦土作戦をとり、さらにはボーア人の家族や現地住民を強制収容所に収容する政策を進め、多数の犠牲者を生んだ。この収容所政策は、国際世論から厳しく批判されることになった。
講和と南アフリカ統合への道
長期化したボーア戦争はイギリスにとっても大きな負担となり、国内外で講和を求める声が高まった。最終的に1902年、ヴェレーニヒング条約が締結され、ボーア側はイギリスへの忠誠を誓う代わりに、一定の自治と戦後復興支援を認められた。トランスヴァールとオレンジ自由国はイギリス領となるが、のちに自治権を回復し、1910年には両地域とケープ植民地などが統合されて南アフリカ連邦(南アフリカ・ユニオン)が成立し、イギリス帝国内の自治領として位置づけられる。この過程は、帝国内における自治領・ドミニオン体制の発展を示す一例であり、植民地(帝国主義時代)からより自治的な枠組みへ移行していく流れを象徴している。
英帝国と国際社会への影響
ボーア戦争は、イギリス帝国に深い教訓を与えた戦争であった。まず、戦争遂行の過程で、軍の組織や兵站、兵士の健康管理の問題が露呈し、その後の軍制改革の契機となった。また、強制収容所や焦土作戦への批判は、帝国支配の正当性に疑問を投げかけ、リベラル派や人道主義者のあいだで帝国主義批判が高まるきっかけとなった。一方で、カナダ連邦やオーストラリア連邦などから志願兵が派遣されたことは、帝国への忠誠と一体感を示すものであり、帝国の「家族」としての結束を強調する材料にもなった。こうした二重性は、ベルエポック期のヨーロッパにおける楽観的な文明観と、その背後にある暴力的な植民地戦争との矛盾を象徴している。
軍事技術と戦争観の変化
ボーア戦争では、連発式小銃や機関銃、鉄道・電信などの近代技術が本格的に活用され、戦場は従来の線形戦から塹壕や要塞を中心とした持久戦・消耗戦へと変化した。ボーア側は機動力を活かした分散戦術によって大型の正規軍を翻弄し、イギリス側は広大な地域を鉄道網と要塞線で押さえながら掃討作戦を行うなど、後の第1次世界大戦につながる戦争形態がすでに現れていた。また、民間人が直接的な被害を受ける総力戦的な性格も顕著であり、戦争と社会の境界が薄れる近代戦争の特徴が表出した。こうした経験は、イギリスのみならず大陸諸国の軍事思想にも影響を与え、戦争と国家・社会の関係を再考させる契機となった。
歴史上の意義
ボーア戦争は、一地域の植民地戦争にとどまらず、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界秩序の変動を示す事件である。アフリカ南部の支配構造を変えただけでなく、イギリス帝国の統治理念や軍事体制、さらには帝国と自治領・ドミニオンとの関係を問い直す契機となった。また、戦時収容所や焦土作戦をめぐる議論は、後の人道法や国際世論の形成にも影響を与え、帝国主義時代の戦争のあり方を象徴する事例としてしばしば言及される。同時に、この戦争は後に成立する南アフリカ連邦の出発点でもあり、現代の南アフリカ史を理解するうえで欠かせない出来事であるといえる。