ボスニアヘルツェゴヴィナ併合
ボスニアヘルツェゴヴィナ併合は、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを正式に領土へ編入した出来事である。形式上この地域はそれまでオスマン帝国の主権下にあり、1878年のベルリン会議以降、オーストリア=ハンガリーが占領・統治していたが、この年に一方的な併合が宣言された。この決定は、バルカンにおける勢力拡大をめぐる列強の対立を激化させ、「ボスニア危機」と呼ばれる国際危機を生み、やがて第一次世界大戦への道を準備する転機となった。
バルカン情勢と列強の思惑
19世紀後半、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど不安定な地域であった。弱体化したオスマン帝国の支配がゆらぐなか、ロシアはスラヴ民族の保護を掲げて南下を進め、オーストリア=ハンガリーは自らの勢力圏を拡大しようとしていた。1878年のベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領統治権を得たオーストリア=ハンガリーは、この地域を実質的な支配下に置きつつも、形式上はオスマン主権のもとにとどめていた。こうした微妙な妥協は、バルカンをめぐる列強の利害対立を一時的に封じ込めるにすぎなかったのである。
青年トルコ革命と併合の決断
1908年、オスマン帝国内で憲政復活を掲げる青年トルコ革命が起こると、状況は一変する。帝国内の立憲化が進めば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの地位をめぐり新たな交渉を迫られ、オーストリア=ハンガリーの統治が揺らぐ可能性があった。そこで外相エールンタールは、既成事実を固めるためにボスニアヘルツェゴヴィナ併合を断行する決断を下した。これはロシアと水面下で取引を行い、黒海海峡体制の改定をめぐる譲歩と引き換えに黙認を得ようとする試みであったが、結果的には十分な見返りを与えることができず、ロシアの不満を残すことになった。
ボスニア危機と列強の反応
ボスニアヘルツェゴヴィナ併合の発表は、ただちに国際的な「ボスニア危機」を引き起こした。とくにボスニアのスラヴ系住民と近隣のセルビア王国は激しく反発し、スラヴ民族の統一を掲げるパン=スラヴ主義運動が高揚した。ロシアもセルビアを支持したが、日露戦争後の軍備再建が進んでいなかったことから、軍事行動に踏み切る力は持っていなかった。
- ロシアはセルビア支持を表明しつつ、最終的には抗議のみにとどまった。
- ドイツは同盟国オーストリア=ハンガリーを強く支援し、ロシアに譲歩を迫った。
- イギリスやフランスはバルカン情勢の激変を警戒しつつも、決定的な行動を避けた。
このように、危機は一時は欧州大戦に発展する可能性を孕みながらも、最終的にはロシアとセルビアが譲歩し、オーストリア=ハンガリーによる併合が国際的に追認される結果となった。
セルビア民族主義とバルカン戦争への連鎖
ボスニアヘルツェゴヴィナ併合は、セルビアにとって民族統一の夢を踏みにじる屈辱であった。セルビア国内では対オーストリア強硬論が高まり、秘密結社や過激な民族主義団体が活動を活発化させた。こうした反発は、1912年以降のバルカン戦争を通じて、オスマン勢力の排除と領土拡大を目指す武力行使へとつながっていく。ボスニアに居住するセルビア人青年の一部は、オーストリア支配への抵抗を正当化し、のちのサライェヴォ事件に象徴されるようなテロ行為へと傾斜していったのである。
第一次世界大戦への道程
ボスニアヘルツェゴヴィナ併合は直ちに大戦には結びつかなかったが、ヨーロッパの同盟構造と安全保障環境を大きく変化させた。ロシアは屈辱的な譲歩を強いられた経験から、次の危機では決して退かないとの決意を固め、軍備拡張を一層進めた。一方、オーストリア=ハンガリーはセルビアとの対立を深め、ドイツの後ろ盾を頼みに強硬姿勢をとるようになった。
- ロシアの対オーストリア・対ドイツ不信の増大
- ドイツとオーストリア=ハンガリーの結束強化
- セルビア民族主義の過激化とテロの温床化
こうした要素が重なり合い、1914年のサライェヴォ事件を契機とする第一次世界大戦勃発へとつながっていく。したがってボスニアヘルツェゴヴィナ併合は、バルカンにおける地域紛争の範囲を超え、ヨーロッパ全体の安全保障秩序を揺るがした前史として位置づけられるのである。
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