ホラーサーン|東イラン・中央アジアの結節点

ホラーサーン

ホラーサーンは、古代から中世にかけて西アジアと中央アジアの接点として機能した歴史地帯である。伝統的な範囲はイラン北東部からアフガニスタン西部、トルクメニスタン南部におよび、主要都市にはニシャープール、メルヴ、ヘラート、バルフ、マシュハドなどが含まれる。シルクロードの結節点として交易と学芸が栄え、イスラーム史においてはアッバース革命の発火点となった。近世以降は政治的境界の変化を経つつも、ペルシア語文化とスーフィズムの重要拠点としての性格を保ってきた。

概要と範囲

ホラーサーンの名は「日の昇る土地」を意味し、イラン高原の東辺を指す歴史的地名である。古典的定義では西限をゴルガーン、北限をコペット・ダーグ南麓、東限をトフハーリスターン(バダフシャーン方面)に取り、南はセイスタンに接する。現代の行政区画ではイランのラザヴィー・ホラーサーン州などが名を継承し、アフガニスタン西部やトルクメニスタン南部にも歴史地理としての領域が及ぶ。

地理と都市

台地・山脈・オアシス・砂漠が交錯する地形で、交易路はオアシス都市を結ぶ形で発達した。ニシャープールは学術都市として、メルヴはオアシス帝都として、ヘラートはティムール朝期の芸術中心として名高い。マシュハドはイマーム・リダー廟を擁し、巡礼と都市経済の核となった。

  • オアシス帯:メルヴ、ニシャープール、トゥース
  • 山岳・台地:ヒンドゥークシュ西端、コペット・ダーグ
  • 交通:シルクロード幹線とその南北分岐の合流点

前イスラーム期の歴史

ホラーサーンはアケメネス朝、アルサケス朝(パルティア)、ササン朝の東方辺境として整備され、ソグド人の交易活動やオアシス灌漑に支えられた。ササン朝はメルヴを東方軍政の要衝とし、エフタルや突厥との抗争・同盟を繰り返した。ゾロアスター教寺院や要塞網が建設され、後のイスラーム期の都市骨格の基礎が築かれた。

イスラーム征服とアッバース革命

7世紀半ば、アラブ軍がササン朝を駆逐すると、ホラーサーンは正統カリフ期からウマイヤ朝支配下に組み込まれ、在地のイラン系・ソグド系勢力と折衝しつつ統治が進んだ。8世紀半ば、アブー・ムスリムがホラーサーンで黒旗を掲げて挙兵し、アッバース革命を成功させる。以後、在地のイラン系指導層は行政・軍事の要として重用され、ペルシア語文化の再興が本格化した。

地方政権の興亡(ターヒル朝からサーマーン朝・ガズナ朝)

アッバース朝の下でターヒル朝がニシャープールを拠点に半自立化し、続いてサーマーン朝がマーワラーアンナフルからホラーサーンへ伸張した。サーマーン朝期には新生ペルシア文学が開花し、行政文書や詩作においてペルシア語が威信を得た。10世紀末、ガズナ朝が進出してトゥースやニシャープールを掌握し、学者や詩人を庇護した。

セルジュークとモンゴル、ティムール朝

11世紀にセルジューク朝がホラーサーンを制圧すると、ニザーミーヤ学院の整備や道路・キャラバンサライ網の拡充が進んだ。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻でメルヴやニシャープールが壊滅的打撃を受けるが、やがてティムール朝がヘラートを華やかな宮廷都市へ再建し、写本芸術・建築・音楽が隆盛した。

近世以降の変遷と現代

サファヴィー朝とシェイバーニー朝・ホラズムの角逐、アフシャール朝のナーデル・シャーの台頭など、ホラーサーンは近世にも戦略地として争奪の的であった。近代国家形成と国境画定により旧来の広域性は分割され、現在はイラン北東部(ラザヴィー・ホラーサーン州など)、アフガニスタン西部、トルクメニスタン南部に歴史的記憶が継承されている。

文化・学術・宗教

ホラーサーンはペルシア語詩の伝統とハナフィー法学、スーフィズムが交錯する場であった。ウラマーとスーフィーの往来が都市間ネットワークを形成し、マドラサやハーンカーが学問と修行の拠点になった。オマル・ハイヤームやアターールに象徴される詩学・哲学は、天文暦法や数学とも結びつき、学際的成果を生んだ。

経済と交通

隊商交易は絹織物、金属器、紙、香辛料、馬など多様な品目を扱い、オアシス灌漑(カナート)と農耕(小麦・綿花・果樹)が都市経済を支えた。キャラバンサライ網は税収と治安の基盤であり、ホラーサーンの繁栄は常に交通の安全と政権の保護に依存した。

語源・名称

名称は中世ペルシア語・アラビア語文献で「東方」を意味し、漢文史料やトルコ語史料にも近似概念が見られる。現代語では Khorasan と表記され、行政名や地誌用語として継承される。

史料と研究

アラビア語・ペルシア語年代記、地理書、旅行記に加え、貨幣学・考古学・建築史の成果がホラーサーン研究を支える。都市遺跡の層位学的調査と紙史・写本装飾の分析が、政治史を越えた地域史像を更新し続けている。