ペルシア帝国の滅亡
ペルシア帝国の滅亡は、古代オリエント世界において大きな影響力を持っていた国家群が、さまざまな要因から連続的に衰退していった歴史を指す。広義にはアケメネス朝ペルシアの崩壊から、パルティア(アルサケス朝)の終焉、さらにはササン朝の滅亡に至るまでを含むが、特にアレクサンドロス大王によるアケメネス朝の征服と、7世紀に始まるイスラム勢力の台頭が「ペルシア帝国」という大きな枠組みの終局として語られることが多い。イラン高原を中心に興隆したペルシア系王朝は、それぞれ独自の文化・軍事制度を整え、メソポタミアからエジプト、さらに中央アジアやインド近郊まで版図を拡大した。しかし外圧や内部の対立に直面し、最終的には新たな勢力に制圧されることで歴史上の支配地位を失っていったのである。
アケメネス朝の繁栄とアレクサンドロスの遠征
アケメネス朝はキュロス2世やダレイオス1世、クセルクセス1世などの王によってオリエントの広域を治め、細分化された属州をサトラップ制で管理した。道路網「王の道」や統一された貨幣経済によって政治・経済・文化の面で高度な統合を達成したが、ギリシア方面への軍事遠征はペルシア戦争という形で長期化した。これを機にギリシア諸都市はマケドニアのフィリッポス2世、そして後を継いだアレクサンドロス3世(大王)の指導下で結束し、紀元前334年からの遠征で急速に領土を奪われる。最後の王ダレイオス3世は逃走を余儀なくされ、紀元前330年に捕らえられ殺害されたことでアケメネス朝は事実上崩壊した。
パルティアとササン朝
アレクサンドロスの死後、その部下たちが領土を分割してディアドコイ戦争を繰り広げたが、やがてセレウコス朝シリアがイラン高原を支配する。しかし紀元前3世紀頃、アルサケスによって起こされたパルティア(アルサケス朝)は遊牧騎兵による機動力を武器に周辺勢力を排除し、小アジアからインドにかけて広い領域を確保した。続くササン朝は3世紀にパルティアを倒して成立し、ゾロアスター教を国教としつつ中央集権体制を築いた。拝火神殿の整備や重装騎兵の編成によって、再び「ペルシア」の名を世界史に轟かせたのである。
ササン朝の頂点と危機
ササン朝はシャープール1世やホスロー1世の治世などにおいて東ローマ帝国との対立を繰り返しながらも、イラクやアルメニアなど戦略的要衝を押さえることで繁栄を極めた。一方、宗教の統制や貴族階級との利害衝突が激化すると、内部的には反乱や暗殺が相次ぎ、国家体制に亀裂が生じる。さらに東ローマ帝国との長年にわたる戦争や疫病の流行、経済疲弊が相乗し、次第に社会全体の活力が失われていく。これらが後の滅亡へとつながる下地を作り出したといえる。
東ローマ帝国との対立
- シリアやアルメニアをめぐる長期抗争が財政と軍事力を消耗
- ヨーロッパ側でもバルカン半島の諸民族の動向に対処する必要が生じ、戦線が複数に拡大
- 度重なる交戦や和平条約の締結が繰り返されるも、決定的な勝利を得られぬまま対立が続いた
イスラム勢力の台頭
7世紀に入り、アラビア半島で誕生したイスラム教を旗印とする正統カリフとウマイヤ朝は急激に軍事と行政組織を強化した。ササン朝内では皇位継承問題や貴族の離反が深刻化しており、北メソポタミアやイラク方面から侵攻してくるイスラム軍を有効に防ぎきれなかった。642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝軍は大敗し、以後はイラクからイラン高原へと次々にイスラム勢力が進出し、首都クテシフォンも陥落する。こうしてササン朝は国家存続の基盤を完全に失い、その王朝としての命脈は事実上絶たれた。
ササン朝崩壊と影響
最後の王ヤズデギルド3世は各地を転々としながら抵抗を試みたが、651年に暗殺され、ササン朝は正式に滅亡した。これによりゾロアスター教を支柱とした国家体制は崩壊し、多くの住民がイスラムに改宗するか、特別な制限と税を負担しつつ在来信仰を続ける道を選んだ。この転換によってイラン高原はイスラム文明圏の一部となり、アラビア語やイスラム文化の影響が加速する。一方でペルシア語はアラビア文字で書かれる形で存続し、後のサファヴィー朝などではシーア派イスラムと結びついて独自の国民意識が再生されることになる。
その後のイラン
ササン朝の滅亡後、ウマイヤ朝からアッバース朝へとイスラム世界の主導権が移る中で、イラン地域にはターヒル朝やサーマーン朝などペルシア系の地方政権が次々と台頭し、イスラム支配下でも自立性を保つ動きが見られた。文学や学問においてはペルシア語詩人フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』などが生み出され、古代ペルシアの栄光と伝統が再評価されていく。こうしてイランは古来からのペルシア文明とイスラム世界が複雑に交錯する独特の文化圏として発展し、近世や現代に至るまで多様な歴史を紡いでいる。