ペリオイコイ|スパルタ周辺に住む自由民階層

ペリオイコイ

ペリオイコイは、古代スパルタにおいて市民権を持たないものの自由民として扱われた周辺住民を指す。ラケダイモンの中心部に居住するスパルティアタイ(完全市民)とは異なり、政治の最高意思決定や要職には関与できなかったが、自らの財産を保有し、商工業や農業に従事する権利を与えられていた。ペリオイコイはスパルタ領の周辺地域や辺境に暮らし、外部との交易や工房の運営を担うことで都市国家経済を下支えする存在だった。スパルタの軍隊にも参加する義務が課され、重装歩兵として参戦するケースも見られたが、スパルティアタイほど強い発言権や政治的特権を得るには至らなかった。

名称と由来

ペリオイコイ」という名称は、ギリシア語で「周囲に住む者」あるいは「周辺の民」を意味するとされている。都市中心部ではなく周囲の地域を領有し、そこで一定の自治的活動を行う立場を示す呼称であった。紀元前8世紀以降、スパルタがドーリア人国家として勢力を伸ばす中、征服や同盟関係の締結によって複数の集落が支配下に組み込まれ、そこに住む人々がペリオイコイとして位置づけられたと考えられている。この呼称は、彼らがスパルティアタイとヘイロータイ(隷属民)の中間階層を担っていた点を象徴するものといえる。

社会的地位と階層

スパルタ社会は厳密な身分分化で知られている。スパルティアタイは政治と軍事を握るエリート層、ヘイロータイは支配される隷属農民という位置づけであった。一方、ペリオイコイは自由身分を保ちつつも完全市民に比べて大幅に政治的権利を制限され、議会(アペラ)での投票や最高官職への就任は認められなかった。さらに経済面でも農地の分与を受けることは少なく、商工業や手工業、さらには軍事支援の義務を負うかたちでスパルタ社会に貢献した。こうした構造は、スパルタの自給自足体制と軍国主義を支える要素の一つとなった。

軍事への参加

スパルタの軍隊は主にスパルティアタイによって構成されると一般的には理解されているが、必要に応じてペリオイコイも戦列に加わった。例えば遠征軍の規模が大きい場合や、長期にわたる戦役で兵力が不足するときに彼らの協力が不可欠だった。ペルシア戦争やペロポネソス戦争などの大規模な軍事衝突では、スパルティアタイを中心にしながらも周辺地域住民を含む多様な層の動員が行われ、ペリオイコイも重装歩兵や補給部隊の任務を果たした。こうした軍事的貢献はスパルタ社会において低くは見られず、優れた働きをすれば一定の名誉も得られたという。

経済活動

共同体の基盤を農業に頼っていたスパルタでは、軍事訓練や政治業務に専念するスパルティアタイが直接商売を行うことは少なかった。そのため、商業や鉱山開発、工房の経営などは主にペリオイコイが担う形となった。彼らは金属加工や武具の製造、港湾を通じた海上交易などに従事し、スパルタにとって欠かせない財源を確保する役割を果たした。スパルタ内部の需要を満たすだけでなく、外部との取引を通じて共同体に富や物資をもたらし、軍国主義を支える物的基盤を整える重要な歯車であったと推察される。

対外関係と周辺集落

  • 同盟形成:ペロポネソス同盟の一員として参画し、スパルタの外交政策に協力
  • 交易拠点の確保:海沿いの集落では、地中海世界との輸送ルートを管理
  • 防衛線の構築:周辺地帯を支配下に収めることで、侵攻時には緩衝地帯となる
  • 文化的交流:ギリシア本土や近隣ポリスとの接触を通じ、情報や技術をスパルタへ伝達

アテナイなど他ポリスとの比較

古代ギリシア世界には在留外人や隷属民など、多様な身分制度が存在した。アテナイのメトイコイやテーバイの周辺民は比較的公的空間に参画する機会が多かったが、スパルタのペリオイコイは軍事と生産の役割に特化し、市民権を得ることが極めて困難だった点で対照的といえる。アテナイでは財産額に応じて政治参加の度合いが変化し、ある種の社会的流動性が存在したが、スパルタは血筋と伝統を重んじる風潮が強く、完全市民層とそれ以外の境界がより固定化されていたとされる。

衰退とヘレニズム期への影響

スパルタはペロポネソス戦争に勝利して一時的に覇権を得たが、マケドニア王国の台頭やテーバイの反撃などを受けて勢力を衰退させた。その結果、ペリオイコイの地位も従来の軍事的・経済的価値が変容し、ヘレニズム期に至るまでにスパルタ固有の社会構造は大きく揺らいだと考えられる。とはいえ、ドーリア的伝統を保持するスパルタ人の意識は強く、ペリオイコイを含む多層的社会の特徴が完全に消滅することはなかった。後世の史料やプルタルコスの記述などを通じて、スパルタの独特な社会運営とそれを支えた周辺住民の存在が長く語り継がれる。

考古学的資料

文字史料に比べ遺物の乏しいスパルタ世界では、ペリオイコイの存在を物語る考古学的証拠を特定することが難しい面がある。とはいえ、近年の発掘調査で見つかる集落跡や工房の遺構、焼き物の様式などから、都市中心部とは異なる生活様式や生産活動が行われていた形跡が徐々に明らかになっている。これらの発見は、従来の文字史料の裏付けとして、自由民ながら政治参加の制限を受ける周辺住民がスパルタの繁栄を下支えしていた事実を具体的に示すものである。