ベヴァリッジ報告とは
ベヴァリッジ報告とは、1942年に戦時下のイギリスで公表された社会保障改革の基本設計図であり、戦後の福祉国家形成を方向づけた政策文書である。所得の喪失や貧困を個別の救貧ではなく、社会全体で予防し補償するという発想を明確にし、社会保険、医療、雇用政策を一体で構想した点に特徴がある。
作成の背景
作成の舞台は第二次世界大戦期である。総力戦は国民生活を国家が広く統制する状況を生み、戦後復興の構想も「平時に戻す」だけでなく「より良い社会をつくる」方向へと向かった。1920年代以降の不況や大量失業の経験、既存の救貧制度の限界も、包括的な社会保障の必要性を押し上げた。戦時の連帯意識と、戦後の政治的合意形成が重なったことが、ベヴァリッジ報告を国民的議論の中心へ押し上げた要因である。
報告書の狙いと基本思想
ベヴァリッジ報告は、生活上の主要リスクを「例外」ではなく「誰にでも起こりうる出来事」として捉え、制度の普遍性を重視した。中心には、拠出と給付を明確化する社会保険の考え方が置かれ、勤労を前提にしつつ、疾病や失業、老齢などで所得が途絶える局面をカバーすることを目指した。また、単に給付を増やすのではなく、貧困の再生産を断つために医療、住宅、教育、雇用の政策領域を連結させた点に思想的な強さがある。
社会保険の設計と対象範囲
制度設計の核は「全国民を原則として同一の枠組みで包摂する」点にある。従来の職業別・制度別の断片化を改め、標準化された保険料と給付を通じて公平性と管理可能性を両立させようとした。これにより、救貧的な選別を縮小し、働くことと保障を結びつける枠組みが強化される。
- 拠出: 広い範囲の国民が定額的に保険料を負担し、制度の基盤を共有する。
- 給付: 失業、疾病、障害、老齢などの所得喪失局面で最低限の生活を支える給付を用意する。
- 補完: なお不足が残る層には公的扶助で穴を埋め、制度の網の目を細かくする。
この枠組みは、年金や失業保険といった制度の整理統合を促す方向へ作用し、戦後改革の工程表として参照されることになる。
「5つの巨人」と政策課題
ベヴァリッジ報告が象徴的に提示したのが「5つの巨人」である。社会を蝕む根本問題を、貧困だけに限定せず、生活環境や人的資本まで含めて把握したことが、福祉国家の射程を拡張した。
- Want(欠乏): 所得不足と貧困の是正
- Disease(疾病): 医療へのアクセス確保
- Ignorance(無知): 教育機会の拡大
- Squalor(不潔・劣悪な住環境): 住宅と都市環境の改善
- Idleness(怠惰・失業): 完全雇用を目標とする雇用政策
この整理は、給付行政だけでなく、国家の経済運営や社会投資を含む総合政策として福祉を設計する発想を後押しした。
戦後イギリスへの具体的影響
戦後の労働党政権のもとで、ベヴァリッジ報告の構想は制度へ移されていく。とりわけ医療については、国民が原則として無料で利用できるNHS(国民保健サービス)創設へつながり、医療保障が社会権として位置づけられる契機となった。社会保険の体系化も進み、拠出と給付の全国的な統一が図られた。こうした一連の改革は、福祉国家という概念をイギリス政治の中心語彙へ押し上げ、戦後社会の標準モデルを形成した。
評価と論点
ベヴァリッジ報告は、普遍主義と予防の思想を明快に示した点で高く評価される一方、制度運営には現実的な論点も残した。定額給付は分かりやすいが、物価や賃金構造の変化に対応しにくく、給付水準の調整が政治課題化しやすい。家族モデルを前提にした設計は、就業形態やジェンダー役割の変化と緊張を生みうる。さらに、完全雇用を重要な前提に置いたため、景気後退期には財政負担と失業増が同時に押し寄せるという構造問題も意識されるようになった。
国際的な波及と歴史的位置づけ
戦後の先進諸国では社会保障の拡充が進んだが、ベヴァリッジ報告は「国家が最低生活を制度的に保障する」ことを、戦時の非常措置ではなく恒常的な社会設計として提示した点で画期的である。イギリスの経験は、社会保険中心の枠組み、医療の公的保障、雇用政策の重要性といった論点を国際的議論へ送り出した。今日でも、福祉の普遍性、負担と給付の均衡、医療制度の持続可能性などをめぐる政策論争において、参照される基準点として機能し続けている。