ベンガル知事|インド東部を支配する長官

ベンガル知事

ベンガル知事は、18世紀後半以降、インド東部のベンガル地方を支配したイギリス東インド会社の高級官職であり、やがてインド全域を統括する総督職へと発展した統治者である。もともとベンガル地方はムガル帝国の一州であり、地方支配者であるベンガル太守が徴税と行政を担っていたが、プラッシーの戦いとブクサールの戦いを経て東インド会社が徴税権(ディーワーニー権)を獲得すると、会社側の代表としてベンガル知事が実質的支配者となった。英語史料では“Governor of Bengal”“Governor-General of Bengal”と呼ばれ、日本語では「ベンガル総督」と訳されることも多いが、ここでは便宜的にベンガル知事と表記する。

成立の背景

18世紀前半まで、ベンガル地方の政治的中心はムガル帝国から任命されたベンガル太守であった。しかしムガル帝国の権威が衰退すると、地方太守は半ば独立した勢力となり、対外的にはフランスやイギリスなどヨーロッパ商人との取引を通じて財政基盤を強化した。東インド会社はベンガル地方の豊かなインド産綿布や米、アヘンなどの交易利権を狙い、ベンガル太守と対立しつつ軍事力を強めた。その帰結が1757年のプラッシーの戦いと1764年のブクサールの戦いであり、勝利した会社は徴税権を掌握し、カルカッタを拠点に行政官としてベンガル知事を配置する体制を整えた。

東インド会社支配の中核としての役割

ベンガル知事は、名目上はムガル皇帝の権威を尊重しつつも、実際にはベンガル地方の税収・司法・軍事を統括し、会社支配の中核を担った。とくに1773年の規制法により、ベンガルの知事は“Governor-General of Bengal”として他のマドラス・ボンベイ各管区の上位に位置づけられ、インドにおけるイギリス支配の中心的地位を占めることになった。知事はロンドンの株主と本国政府の意向を調整しつつ、現地では地主支配の再編(恒久的地税制度など)や軍備拡張を進め、やがてインド全域への勢力拡大の足がかりを築いた。

ベンガル太守との関係

ベンガル太守は形式上は依然として存在したものの、実権はベンガル知事に移り、太守は年金を受け取る名目的君主へと転落した。これは、現地の伝統的支配者の権威を温存しつつ実際の行政を植民地官僚が握るという、のちの保護国化でも見られる手法の先駆例であった。この二重構造は、社会の上層部に属するインド人エリートを懐柔しつつ、農民や都市民からの搾取を強化する方向に働いたため、19世紀を通じて租税負担や飢饉の一因とみなされるようになった。

ベンガル総督・インド総督への発展

19世紀に入ると、ナポレオン戦争期の対フランス競争や、インド内陸部への進出拡大を背景に、ベンガル管区の重要性はいっそう高まった。ベンガルの知事はそのまま「インド総督」へと位置づけを拡大し、全インドを統括する最高権力者として振る舞うようになる。こうしてベンガル知事という地方官職は、実質的に大帝国インドの元首的存在へと変質し、グレートゲームやアフガニスタン政策、さらにはビルマ併合など、広範な対外政策を指揮する立場となった。このイギリス帝国主義の展開は、後世にはサルトルニーチェといったヨーロッパ思想家によっても批判的に論じられる対象となる。

ベンガル地方社会への影響

ベンガル知事のもとで進められた土地制度改革や現金地代の徴収は、地主(ザミーンダール)と農民との格差を拡大させ、農村社会の不安定化をもたらした。インド産綿布産業に対する重税とイギリス製綿製品の流入は、ベンガルの手工業を衰退させ、農民は換金作物の栽培に追い込まれていく。また鉄道・港湾建設など近代的インフラ整備は、一方ではボルトのような工業部品を大量消費する産業構造を本国に育て、他方では植民地側を原料供給地・市場として組み込んだ。このような構造のなかで、ベンガル地方はイギリス帝国経済の「穀倉」かつ「実験場」として扱われ、19世紀末以降のベンガル分割や民族運動の舞台となっていく。

インド植民地化における位置づけ

ベンガル知事を中心とするベンガル管区行政は、西欧勢力の進出とインドの植民地化の最前線として機能した。ここで確立された会社支配と官僚制統治のモデルは、のちにインド全土や南アジア各地へと拡大し、世界史的には「会社の帝国」から「本国直轄植民地」への移行を象徴する事例とされる。ベンガル地方の経験は、その後の植民地支配や民族運動を理解するうえで不可欠であり、帝国主義とナショナリズムが交錯する近代史の鍵となる地域像を示している。