ベルギー
現在のベルギーは、西ヨーロッパに位置し、北海に面する小国であるが、歴史的には大国の利害が交錯する要衝であり、「欧州の十字路」とも呼ばれてきた。フランス、オランダ、ドイツ、ルクセンブルクに接し、古くはローマ帝国、さらに中世のフランドル地方の商業都市、近世のハプスブルク支配、そして近代の独立国家と、多様な支配と文化が折り重なってきた地域である。
地理と民族構成
ベルギーは国土が北部のフランドル地方、中部の首都圏、南部のワロン地方に大きく分かれる。北部にはオランダ語を話すフラマン人が、南部にはフランス語系のワロン人が多く居住し、さらに東側にはドイツ語話者も存在する。首都ブリュッセルは事実上フランス語話者が多数派であるが、公用語としてオランダ語とフランス語が併用される特別地域であり、多言語・多文化社会というベルギーの特徴を象徴している。
- 首都ブリュッセルにはEU本部やNATO本部が置かれ、現代ヨーロッパ外交の中心となっている。
- 北部の港湾都市アントウェルペンは、中世以来の商業・金融都市として知られ、近代以降も貿易の拠点であり続けた。
中世から近世までの歴史的背景
中世のベルギー地域は、ブリュッヘやガンといったフランドル諸都市が毛織物工業と交易で栄えたことで知られる。これらの都市は、北海と内陸を結ぶ商業ネットワークの要衝であり、後のオランダ商業圏やハプスブルク家による支配と深く結びついていった。近世にはネーデルラント17州の一部としてスペイン系、のちにオーストリア系ハプスブルクの支配下に入り、宗教改革と反宗教改革、さらには独立戦争の影響を受けて政治的版図がたびたび変動した。
この地域は、のちに北部がネーデルラント連邦共和国として独立し、南部がハプスブルク領に残ることで、文化・宗教・政治構造の違いが強まった。カトリック色の濃い南ネーデルラントが現在のベルギーの中心となり、北部プロテスタント地域とは別の歴史的歩みをたどることになったのである。
ナポレオン戦争とウィーン会議後の再編
フランス革命とフランス革命戦争、さらにナポレオンの台頭は、南ネーデルラントにも直接的な影響を与えた。ナポレオン期にはこの地域はフランスに併合され、行政改革や法典の整備が進められたが、支配は軍事的性格が強く、住民の反発も生じた。1815年のワーテルローの戦いは、現在のベルギー領内で行われた決定的会戦であり、ナポレオン失脚とヨーロッパ再編の象徴的な出来事である。
その後、ウィーン会議とウィーン体制の成立により、列強はフランス包囲と勢力均衡の観点から、南ネーデルラントを北のオランダと合体させ、「オランダ連合王国」とした。これはメッテルニヒらが唱えた勢力均衡と正統主義に基づく再編政策の一環であったが、言語・宗教・経済構造が異なる南北を一つの王国にまとめたため、内部には大きな緊張が残された。
ベルギー独立と近代国家の成立
1830年、南部住民は政治的・宗教的な不満と経済格差を背景として反乱を起こし、これがベルギー独立革命へと発展した。フランス語系エリートとカトリック教会、都市の労働者や中産層が連携し、オランダ王家に対する分離独立を要求したのである。列強はフランスの影響拡大を警戒しつつも、独立を承認し、1831年には立憲君主制の下でベルギー王国が成立した。このとき制定された憲法は、当時のヨーロッパでも自由主義的な内容を持ち、市民の権利保障を比較的広く認めていた。
こうしてベルギーは、オランダ立憲王国とは別個の立憲王国として国際社会に認められ、以後は中立国としての地位を維持しながら、産業革命とともに炭鉱・製鉄・繊維などの分野で早期に工業化を進めた。19世紀末から20世紀初頭にはコンゴ自由国を統治し、植民地帝国の一角を占めるようにもなったが、これは後世に大きな人権問題を残すことになった。
現代のベルギーと国際的役割
20世紀には二度の世界大戦でベルギーはたびたび戦場となり、多大な被害を受けたが、その経験から国際協調志向を強めていった。戦後は、欧州石炭鉄鋼共同体やヨーロッパ統合の枠組みに積極的に参加し、ブリュッセルはEU諸機関やNATO本部を抱える国際都市として発展した。国内では、言語地域ごとの自治権拡大を通じて連邦制へと移行し、フラマン人とワロン人の対立を政治制度の工夫によって調整する試みが続いている。
このようにベルギーは、地理的には小国でありながら、ヨーロッパ政治史の転換点で繰り返し重要な舞台となり、現在も国際機関を通じて大きな影響力を持ち続けている。歴史的には列強の間に挟まれた緩衝地帯でありながら、自らの立憲体制と多文化社会を模索し続けてきた点に、この国の特色が見いだされるのである。