ヘンリ7世|テューダー朝を開き王権を強化

ヘンリ7世

ヘンリ7世(1457-1509)は、バラ戦争を終結へ導き、テューダー朝を開いたイングランド王である。ウェールズに生まれ、ヨーク派とランカスター派の長期内乱を経て、1485年のボズワースでリチャード3世を破り即位した。彼の治世は、貴族勢力の武断性を抑えて王権の財政基盤と行政を整え、戦費に頼らぬ平和外交と通商振興で国家収入を拡大した点に特徴がある。反乱鎮圧、財政・司法の組織化、婚姻外交による王朝の安定化を進め、近世的王権の出発点を画した統治者である。

出自と即位の経緯

ヘンリ7世はマーガレット・ボーフォートを母とし、ランカスター系の血統を有した。青年期にブルターニュへ亡命し、フランスの後援を得て1485年にウェールズへ上陸、支持勢力を糾合した。ボズワースの戦いで勝利すると戦場で戴冠し、内乱終結の象徴として新王朝を宣言した。この非常時の即位は、武勲よりも秩序回復を重んじる統治理念を彼に自覚させたと評される。

王朝統合と象徴政治

内乱再燃を防ぐため、ヘンリ7世はヨーク家のエリザベスと結婚し、両家の統合を内外に示した。テューダー・ローズは赤薔薇と白薔薇の統一を表す王朝の紋章として流布し、忠誠の視覚的象徴となった。反乱勢力に対しては恩赦と没収を使い分け、陪臣の再編を進めることで、表面的な和睦だけでなく服属の実質化を図った。

貴族勢力の抑制と司法の整備

ヘンリ7世は私兵動員(リヴァリー&メンテナンス)を制限し、違反者に重い罰金を科した。治安維持の中心に治安判事(JP)を据え、王璽法院や星室庁の運用を強化して、貴族間抗争を抑える司法秩序を築いた。これにより、地方の裁断権が王権へ回収され、内乱期に膨張した領主的裁量が段階的に縮小した。

財政改革と収入基盤

歳入は関税(トンネージ&パウンデージ)や王領収入の再建に依拠し、罰金・誓約金(ボンズ&レコグニザンシズ)を用いて違反に抑止をかけつつ財源化した。王室財務は宮廷会計の直裁統制を強め、徴収効率を高めた。積極的な増税より、既存権益の漏れを塞いで常時的収入を増やすという、慎慮の財政運営が特色である。

対外政策と通商条約

ヘンリ7世は大陸介入を抑え、講和金と通商で国益を得た。1492年のエタプル条約でフランス年金を確保し、1489年のメディナ・デル・カンポ条約でスペインと婚姻・通商関係を整えた。さらに1496年のマグナス・インタクルススでネーデルラントとの毛織物交易を回復し、1497年のエイトン条約でスコットランドと平和を築いた。

主要条約の要点

  • エタプル条約(1492):出兵終結とフランス年金の獲得
  • メディナ・デル・カンポ(1489):対スペイン婚姻・関税枠組み
  • マグナス・インタクルスス(1496):フランドル交易の正常化
  • エイトン条約(1497):北方国境の安定化

僭称者と反乱の鎮圧

王朝初期は不安定で、ランバート・シムネルの反乱(1487)をストーク・フィールドで撃破し、つづくパーキン・ウォーベックの動き(1491-1499)も鎮圧した。ヘンリ7世は国外宮廷の支援を外交で遮断し、内では誓約金・没収・恩赦を組み合わせて粘り強く収束させた。武力より封鎖と分断に長けた危機管理である。

海事・探索の支援

王は商船保護と港湾整備を進め、1495年にはポーツマスに乾ドックを設けたと伝わる。1497年、ジョン・カボットの北西航路探検を許可し北大西洋への到達を促した。軍事的大艦隊ではなく、交易の回復と通航の安全確保を通じて、税収と王権の威信を漸進的に高める発想が見て取れる。

宮廷運営と情報統制

ヘンリ7世は小人数の枢密評議を重用し、行政と財政を迅速化した。勅許状や私法上の誓約を巧みに用いて、貴族の行動を制度的に拘束した。また、諜報と密使を駆使して国外の支援網を寸断し、反乱の芽を早期に摘み取った。公開的な威勢より、裏付けある文書統治が信条であった。

婚姻政策と継承

王太子アーサーとカタリナ・オブ・アラゴンの婚姻は対スペイン同盟の要であったが、アーサーは1502年に夭折した。王妃エリザベスも1503年に没し、継承は次子ヘンリー(後のヘンリ8世)へ移る。ヘンリ7世は1509年に崩御し、ウェストミンスター寺院に葬られた。王朝は次代で宗教改革を迎えるが、その基盤はすでに整っていた。

評価と歴史的意義

内乱後の荒廃を前に、ヘンリ7世は「戦利の王」より「収支の王」であった。彼は苛烈さを帯びる場面もあったが、財政の恒常性、司法の可視性、外交の合理性を優先し、専制に傾きすぎず統治の実効性を追求した。テューダー朝の長期安定、商業復興、王権の制度化という視点で、その治世は近世イングランドの始動期として位置づけられる。