ブーヴェ|康熙帝に仕えたイエズス会士

ブーヴェ

ブーヴェ(Joachim Bouvet, 1656–1730)は、清代前期に北京で活動したフランスのイエズス会士である。漢名は白晋。ルイ14世の保護下で派遣された「国王の数学者」団の一員として来華し、康熙帝の前で数学・天文学・測量・地理の講義を行い、西洋科学を宮廷に制度的に導入した。さらに『易経』をキリスト教啓示の先駆とみなす象数的解釈(figurism)を唱え、東西知の接合を図った点で、清朝宮廷とヨーロッパ知識世界のあいだを媒介した人物である。

出自と来華

フランスで修学・司祭叙階後、彼はルイ14世の支援を受けた布教・学術使節に選ばれた。1680年代後半に海路でアジアへ向かい、1688年頃に北京へ到着したとされる。同使節には張誠の名で知られる Gerbillon らが含まれ、彼らは清廷で暦算・測地・機器製作に携わった。先行世代の湯若望や、後続のフェルビースト、同僚の南懐仁と連続する科学伝来の潮流の中で、ブーヴェは宮廷講師・学術顧問として位置づけられる。

康熙帝の師としての活動

宮廷講義と測量

康熙帝は若年より算学・幾何・天文に強い関心を示し、ブーヴェは球体・三角法・天体運行の講義を行った。宮廷内では天文観測の実習、地図作成のための基線測定や経緯度算定、観測器具の調整にも関与し、実用性と理論を結びつける教授法で信任を得た。

白晋という中国名

「白晋」という名は、清朝における西洋人官員・学者への命名慣行に従うもので、彼はこの名で勅諭・奏摺に現れ、宮廷記録にもその活動が残された。官式文書に名が刻まれたこと自体、宮廷内部での実務的役割の大きさを物語る。

易経解釈とフィギュリズム

ブーヴェは『易経』の卦・爻を象数的記号体系とみなし、聖書の啓示と符合する「太古の普遍的真理」を含むと主張した。彼は易の図譜や注解を整理し、ヨーロッパへ送った資料の中で、伏羲・文王の配列を数理的コードとして読み解く試みを展開した。この往復書簡は、Gottfried W. Leibniz の二進法的着想と共鳴し、東西の記号論・計算論の対話を促した点で知られる。ブーヴェの構想は神学的配慮が強く、中国知識人の受容は限定的であったが、象数易学の近世的再解釈という刺激を与えた。

往復・報告とヨーロッパへの波及

彼は一時帰欧して宮廷・修道会に事情を報告し、資金や書籍・機器の補給を調達した。清朝宮廷の学術事情、地理・制度・言語に関する彼の報告書や書簡は、ヨーロッパにおける「中国像」の形成に影響を及ぼし、啓蒙期の比較文明論や方法論論争にも参照された。布教規則や典礼問題をめぐる緊張が高まる中でも、彼は対話の窓口として、科学と信仰の両立を説く調整役を担った。

清代学術・文化の文脈

ブーヴェの活動は、清初における学問の再編とも響き合う。経学は実証的傾向を強め、やがて考証学が台頭した。明清交替期の思想家としては黄宗羲顧炎武が知られ、制度・文献・度量衡を厳密に吟味する態度が広がった。他方で、宮廷と都市文化は活況を呈し、文学では紅楼夢聊斎志異などの語りが成熟し、知と表象の関係を多面的に映し出した。ブーヴェの象数的読解は、こうした清代知の多層性の一断面として理解される。

主要な業績(要点)

  • 康熙帝に算学・天文を教授し、西洋科学の継続的導入を制度化した。
  • 測地・地図製作・観測機器の運用に関与し、宮廷での実務的信頼を獲得した。
  • 『易経』を象数的に解釈し、figurism を提唱して東西知の接合モデルを提示した。
  • 欧州学界と往復書簡を交わし、資料・図譜を提供して比較思想・計算論の議論を促した。
  • 典礼問題下でも科学協働のチャンネルを維持し、学術交流の政治的条件を探った。
  • 清初の学術動向と宮廷文化の中で、科学・神学・古典解釈の三領域を横断した。

評価と位置づけ

ブーヴェは、科学技術の実務者・宮廷講師・古典解釈者という三つの顔を併せ持つ。彼の象数主義は今日では神学的読みの色彩が濃いと見なされるが、記号体系として『易経』を捉え直し、東西の方法論対話を具体的な文書交換・図像共有という形で成立させた点に歴史的価値がある。清朝宮廷の学術インフラ整備に寄与しつつ、ヨーロッパ啓蒙の知的地平にも痕跡を残したその生涯は、グローバルな知の循環が始まる転換期の肖像である。