ブーランジェ事件
ブーランジェ事件は、19世紀末のフランス第三共和政を根底から揺るがした政治的危機であり、将軍ジョルジュ=ブーランジェを中心とする反議会主義運動として展開した事件である。普仏戦争の敗北とフランス革命以来の共和主義の伝統のあいだで揺れるフランス社会において、強力な指導者を求める大衆感情と、既成政党に対する不信が結びつき、カリスマ的軍人に権力奪取の期待が集中した点に特徴がある。
歴史的背景とフランス第三共和政
19世紀後半のフランスでは、普仏戦争の敗北、ドイツへのアルザス・ロレーヌ割譲、戦後賠償などが国民の屈辱感と復讐心を高めていた。他方で、帝政崩壊後に成立した第三共和政は、共和派、立憲君主制派、ボナパルティストなどが対立する不安定な体制であり、政権が短期間で交代を繰り返したため、議会政治への不信が高まっていた。こうしたなかで軍部は、ドイツへの復讐戦を期待される存在として特別な尊敬を集めた。
ブーランジェ将軍の台頭
ジョルジュ=ブーランジェはインドシナ戦争やチュニス遠征で功績を挙げた軍人で、1886年に戦争相に任命されると、兵士の待遇改善や服制改革などを行い「兵士の友」として人気を高めた。同時に、対ドイツ強硬論を唱え、「復讐(レヴァンシュ)」を掲げることでナショナリストの支持を獲得した。彼の周囲には、君主制復活を望むボナパルティストや保守派、反資本主義的な急進共和派など、イデオロギーの異なる勢力が集まり、ブーランジェ個人に期待を集中させる大衆運動が形成された。
ブーランジェ主義と大衆政治
ブーランジェを推す勢力は、議会制度と政党政治を腐敗の源とみなし、憲法改正や大統領権限の強化を掲げる傾向を強めた。その主張は、強い指導者を求める感情的なナショナリズムと結びつき、後に「ブーランジェ主義」と呼ばれる。ブーランジェは補欠選挙に立候補して圧倒的得票を得るなど、都市有権者の間で爆発的な人気を誇り、新聞やポスターを通じた宣伝は、19世紀末ヨーロッパにおける大衆政治の新段階を象徴する現象であった。
権力奪取の挫折と失墜
1889年、首都パリの補欠選挙での大勝を背景に、ブーランジェが支持者の民兵とともに議会を包囲し、事実上のクーデタを行う構想が浮上した。しかし本人は最終的決断をためらい、機会を逃したとされる。その後、政府は彼を反逆罪で起訴しようと動き、ブーランジェは逮捕を恐れて国外へ逃亡した。亡命先でのスキャンダルや裁判の欠席裁判、有罪判決を経て支持は急速に萎み、彼は最終的に自殺し、ブーランジェ事件は終息へ向かった。
ブーランジェ事件の政治的意義
ブーランジェ事件は、反議会主義運動が実際に体制転覆の危機をもたらした点で、第三共和政最大の試練の一つであった。結果としてクーデタが失敗したことで、共和派は危機感を共有し、体制を防衛するための協調を強めた。この経験は、のちのドレフュス事件の際にも、反ユダヤ主義と結びつく反共和主義勢力への警戒として生かされ、共和制の正統性を再確認する契機となったと評価される。
反議会主義とポピュリズムの先駆
ブーランジェ事件は、個人崇拝と直接的な国民投票的発想に支えられた運動であり、後世のポピュリズム政治の先駆として位置づけられることが多い。既成政党への不信を利用し、「国民」と「腐敗した議会」を二項対立で描くレトリックは、20世紀以降の大衆民主主義のなかでも繰り返し現れるパターンである。
ヨーロッパ政治史の中での位置づけ
19世紀末ヨーロッパでは、選挙権拡大と政党組織化の進展により、大衆が政治に直接関与する局面が増えた。ブーランジェ事件は、その過程で生じた過渡的現象として、カリスマ的軍人が議会制を迂回して権力を掌握しようとする危険性を示す事例であるといえる。その意味で、ボナパルティズム的伝統と共和制とのせめぎ合い、さらには議会制民主主義の定着過程における試練として理解される。
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普仏戦争後の混乱の中で形成された第三共和政の脆弱性
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強力な指導者待望論と反議会主義の結合
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軍人カリスマをめぐる大衆政治の光と影