フランス第四共和政|内閣不安定、復興と欧州統合

フランス第四共和政

フランス第四共和政は、第二次世界大戦後のフランスにおいて1946年から1958年まで続いた共和政体制である。占領と解放の経験を踏まえ、議会主導の民主政治と社会改革を掲げて再出発したが、政党分立のもとで内閣が短命化し、さらに脱植民地化をめぐる対外危機が政治の安定を損ねた。最終的にはアルジェリア問題を契機に体制は行き詰まり、強力な行政府を核とする新憲法の制定へと移行した。

成立の背景

第四共和政の出発点は、戦時下の国家崩壊とその克服にあった。1940年の敗北後、ヴィシー政権が成立し、対独協力と統治の正統性が大きく揺らいだ。一方で国内外のレジスタンスが抵抗を継続し、解放後には臨時政府が再建の中心となった。臨時政府を主導したシャルル・ド・ゴールは国家権力の強化を志向したが、議会中心主義を重視する勢力との対立が続き、憲法制定をめぐって政治構想が分岐した。

1946年憲法と体制の骨格

1946年憲法は、国民主権と議会の優位を基調とし、立法府の中心として国民議会の権限を強く設定した。大統領は議会によって選出される象徴的地位に近く、政府は議会の信任に依存する構造を持った。戦前のフランス第三共和政が抱えた不安定さを意識しつつも、第四共和政では政党協調による統治が制度上も実務上も前提とされた。結果として、合意形成が難しい局面では政治の停滞が生じやすい体制となった。

政党政治と内閣の短命化

第四共和政期の政治は、複数政党の連立を常態とした。主要勢力には共産党、社会党、キリスト教民主系などが並び、政策の優先順位や対外路線をめぐって継続的に摩擦が起きた。とりわけ冷戦の進行により反共・親米の路線が強まると、共産党の扱いをめぐる対立が連立の枠組みを揺さぶった。議会内の多数派形成が流動化した結果、内閣の交代が頻発し、長期的な政策遂行や危機管理が難しくなる傾向を強めた。

経済復興と社会改革

政治が不安定であった一方、経済・社会面では戦後復興が一定の成果を挙げた。国家の関与を強める計画経済的手法が取り入れられ、基幹産業の再編やインフラ整備が進められた。対外的にはマーシャル・プランによる支援を受け、設備投資と生産回復が促進された。社会政策では社会保障の拡充や労働者保護の整備が進み、戦後フランスの福祉国家的性格の基盤が形成された。

外交路線と欧州統合

第四共和政の外交は、冷戦構造の中で西側陣営への結びつきを深める一方、フランスの自立性も模索するという二面性を帯びた。安全保障面ではNATOへの関与が重要となり、同時にドイツ問題と再軍備の扱いが大きな争点となった。経済・政治の枠組みでは欧州統合が進展し、欧州石炭鉄鋼共同体の成立や、1957年のローマ条約による共同市場構想へとつながった。これらはのちの欧州共同体の制度的基礎となり、フランスの対外戦略にも長期的影響を与えた。

脱植民地化と体制危機

第四共和政を決定的に揺さぶったのは、植民地帝国の再編をめぐる危機である。戦後、フランスは帝国の維持と改革を同時に図ったが、現地の民族運動は急速に高揚した。インドシナでは武力衝突が長期化し、1954年のディエンビエンフー敗北は国内政治に強い衝撃を与えた。続いて1954年に始まるアルジェリア戦争は、単なる海外紛争ではなく、フランス本国の政治体制そのものを問う問題として拡大した。軍・入植者・本国世論の対立が先鋭化し、政府は一貫した解決策を提示できないまま危機対応に追われた。

主な出来事

  • 1946年: 憲法制定により第四共和政が発足
  • 1954年: インドシナ戦争の帰結とアルジェリア紛争の開始
  • 1956年: スエズ危機を通じた対外影響力の再評価
  • 1958年: アルジェリア問題を背景に政体転換が進行

終焉と第五共和政への移行

1958年、アルジェリアをめぐる政治的・軍事的緊張が頂点に達すると、既存の議会主導体制では危機を収拾できないとの認識が広がった。結果としてド・ゴールが政権に復帰し、憲法改正を通じて強力な行政府を備える新体制が構想された。こうして1958年憲法が成立し、フランス第五共和政へ移行する。第四共和政は、戦後復興と欧州統合の推進という成果を残した一方、政党分立下の統治困難と脱植民地化の衝撃を受け止めきれなかった体制として位置づけられる。